はじめに 旧中国農村社会における「共同関係」或いは「共同体」問題に関心を示すことは日本の中国農村ないし中国社会研究の特徴である。早くも30-40年代の旧中国農村社会の性質に関する論争の中で中国農村における様々な「共同体的」関係についての議論と研究が大いに盛り上がられた。その中で平野義太郎と戒能通孝との間で行われていた有名な「共同体論争」――前者は共同体肯定論を持ち、中国農村の閉鎖性•村成員の集団性•村落の親和的秩序を強調し、後者は共同体否定論者として村の開放性•村成員の利己的側面及び村内の実力支配関係を指摘する――が(1) 今日も変えた姿で中国史学研究の中を徘徊している。戦後、中国農村社会に妥当する点が多い共同体否定論がほぼ定説となったが、「共同関係」及び「共同体」に対する関心は衰えたわけではない。70-80年代に、小林一美、石田浩、内山雅生をはじめとする日本人の若手学者が改めて華北農村における「共同関係」或いは「共同体」に目を向け始めたことは注目されていれば、70年代の後半から、東南アジアにある村落社会の性格をめぐるスコット対ポプキンの論争が中国史研究に波紋を投げ、この論争にある「農民はモラル的かそれとも合理的か」という構図は、平野―戒能論争と共通性をもつと見られる。いずれ旧中国農村における共同関係及び共同体に対する研究は中国社会を認識する上で重要なテーマであり、しかも充分な解決をみないまま研究史に膠着してしまったことを示そう(2) 。私見によれば、今日の時点でこの研究を再出発するには、次の諸作業――第一に、宗教や信仰など以外にある村民の日常の社会的結合を重視し、多様の共同関係への更なる実態究明をすること;第二に、旧中国農村の生産力構造という物質的基盤にまで遡及し、それが村落共同関係に与えていた規定性を解明すること;第三に、共同関係の中に見られる農民の行動の動機、規範を内面的かつ精確に把握すること;さらに第四に、村落共同関係に潜んでいる歴史(発展段階)的、地域的な性格を捉えること――は、いきづまった状態を打開する鍵となっている。 本稿では上述の課題を念頭におきながら、旧中国農村社会における様々な共同関係の一部であり、しかも農業社会の基盤とも言える農業生産活動に緊密に関連する「農耕上の共同」、より具体的に言えば、旧華北農村において普遍的に行われていた「搭套」という農耕慣行に照準を合わせて検討したい。農民が農耕を業とする人々であり、農耕生産で生活を営むので、農耕上の共同は農民の毎日の実際的、具体的な生活に最も緊密に関わっているのである。従って、農耕上の共同に関する研究は、農民の日常の、等身大の姿と心を描き出す作業であり、草の根レベルの農村社会の、ひいては中国社会の実像を解明することにとっては、非常に重要であると思う。 一、既往の研究 近代華北農村における農耕上の共同というと、「搭套」、「換工」、「幇工」、役畜の「借用」、「代耕」などがあげられる(3) 。この中で搭套は、農家が互いに役畜・農具・人力などを提供しあって共同で耕作を行うという古来の農耕上の共同慣行であり、近代華北農村においては、もっとも重要な農耕共同として、普遍的に行われていた。ところが搭套が農耕慣行として始めて研究者に注目されたのは、本世紀の1940年前後であると思う。当時、「華北農村慣行調査」を行う満鉄調査員たちが北京の北東部にある順義県農村で搭套の事実を発見し、そして彼らに作成された慣行調査資料の中に以下のような搭套に関する現存の唯一の系統的な記録が数多く残されている(4) 。 (1) 県真北第七区の下坡屯と張家荘 (下坡屯では)牲畜の交互貸借を搭套という。ときに三戸の間で行わるるも、餘り多 くない。普通は二戸の間に行わる。感情よき間のみ続き、長きは五年、普通は三年位。 (張家荘では)牲畜の相互貸借を搭套という。主として二戸の間に行わる、三戸の場合なし。長くて四年、普通は二、三年(『慣調』,Ⅰ-31)。 (2) 県の南方、白河と鉄道をはさんでいる河南村と臨河村 (河南村では)牲畜の相互貸借関係を搭套と称し、最大の場合三人、普通は二人の間に行われ、最大継続年限は十年、普通三、四年位。百戸に一戸の割で行わる。( 臨河村での搭套は)精々三戸の間に行われ、普通は二戸の間に、三年以上続くものなし、普通は二、三年(『慣調』,Ⅰ-32,37)。 (3) 県の西南方、順京公路の両側にある十里堡と馬家営 (十里堡では)牲畜の相互貸借の関係を搭套といい、貧乏人が多いため極めて盛んに行われている。二、三戸の間に行われ、二、三年位続く。(馬家営での搭套は)殆ど二戸の間に行われ、長きは四、五年つづく(『慣調』,Ⅰ-44~45)。 (4) 県の北東方、東王警備路の南端にある東府村 搭套という言葉を知っているか==知ってはいるが、めったに使わぬ言葉だ。 驢馬のある家とない家とが農耕に協力することがあるか==ある。 それを何というか==夥養活という。 夥養活では、どんなにして協力するか==家畜と農具とを相互に借用して協力する。 その時に人も出て協力するか==人も出て助ける。 夥養活をする場合には何家位が一組となるか==二家が多い。三家の場合は甚だ少ない(『慣調』,Ⅰ-161)。 (5) 県の最南東にあり、旧密雲県に接する井上村 親しい間柄で畜、農具を貸借することあるや==あり。 右の関係を何というか==搭套、打幇児。 右は畜、農具以外を貸借する時もいえるか==畜の場合に限る。 畜を貸すときは人もついて行くか==概して然り(『慣調』,Ⅰ-8)。 以上の資料により、順義県内において、搭套を代表とする農耕上の共同は各地で普遍的に行われていたこと、このような農耕上の共同はときに名前は異なったが、大体共通の内容―― 役畜と農具とを相互に用いて協力し、人も出て助ける ――をもっており、貧しい村でそして貧乏人の間によく行われていたこと、また普通は2戸の農家で搭套の一組となり、3、4家の例は少く、持続年数は2、3年の場合が多かったことが分かろう。 実は搭套という言葉と搭套のような農耕慣行は順義県に限られたものではない。当時、山海関に近い河北省昌黎県侯家営村にも、北京市の南西部にある良郷県呉店村にも、搭套という同様の農耕慣行が盛んに行われていた(『慣調』,Ⅴ-26,170,415,494)。河北省の中南部に至ると搭套という言葉の使用限界が現れるが、筆者の現地調査によれば、欒城県寺北柴村においては、内容と形式上で搭套に類似した農耕慣行は「搭夥」、「搭夥具」と言われており(5) 、さらに、山東省西部農村、例えば歴城県冷水溝村、路家荘村、恩県(現在は平原県に併合)後夏寨村においては、同様な農耕共同は「合具」、「合夥」という言葉で表現されていた(6) 。なお、本稿では搭套という語を便宜的に一般的概念として使用し、以上の各地の同様な農耕上の慣行を取り扱っておく。 さて、搭套に関する最初の研究は、戦前の「村落共同体論争」と深く関連しており、共同体研究にある「副産物」であったといえる。例えば、ややも共同関係があると、それを直ちに共同体と言いかえがちの平野義太郎氏の場合は、搭套などの農耕上の共同は村民の集合・治安・防衛・祭祀・雨乞・婚葬・行事等とともに農村生活における「集団的行為」という言葉で統括されている。そして対立者とする戒能通孝氏の場合は、むしろ搭套慣行の中から「支那農村の特質の一部を反映する」といった「契約的、有償的」側面が指摘され、そこから導き出されたのは当然共同体否定の持論である(7) 。 続いて福武直氏が、終戦直後に出版された『中国農村社会の構造』の中で、「村民の協同生活」という節及び「農耕上の協同」という項目をもうけ、はじめて農耕上の共同の諸形式に触れた。搭套について、氏は「一頭しか所有しない農家が同様な条件の農家と相互に融通し合ひ共同に耕作するといふ協力の仕方」という正確な概念規定を下したほか、農耕上の協力組織の低調および搭套慣行にある「同等な条件」とか「条件が略相等しい」という前提認識から、中国村落には日本の村落に見られるような非合理的非打算的な協力関係が見られないと、戦前共同体否定論の延長線で結論を出した(8) 。福武氏の搭套認識には、理論による推測が多いほか、搭套など農耕上の共同関係は広汎に存在し、かつ必要不可欠であったと言う事実を看過した傾向があり、また同時代の戒能氏と同じように、日本の村落をモデルとして農耕上の共同を「非合理的非打算的な親密なる協力」関係だと規定する考えが見られる。方法論上の疑問を別にして、果たして「合理的打算的傾向」の下に農耕上の共同が成立できなかったのか、搭套慣行の組織上の低調がどういうことを意味するのかは福武氏がわれわれに残した課題であろう。 旗田巍氏は満鉄調査員及び「慣行調査」の参加者として、戦後に「多数の農民を集めた協同活動」としての看青などの「農民の集体行動」を精力的に究明していたが、搭套のような農耕上の共同については、「二、三家の相互扶助的な協同」と位置づけただけで、福武氏と同じように詳しく展開しなかった。しかし、氏が「社会的基盤の差異」と「歴史的性格」を重視する「歴史的発展的方法(9) を提示してくれたことによって、村落共同体と共同関係研究は「村落共同体論争」の型を脱却することが可能になろう。 1980年代の初頭から内山雅生氏は「近代華北農村社会における共同関係」に関する一連の研究の中で、本格的に搭套慣行に着目してきている。内山氏の問題意識は、まず、旗田氏の先行研究に対して、搭套が「なぜ看青のように『多数の農民』を組織化しえないのか、さらに一方で二・三の農家の間とはいえ、なぜ相互扶助的形態をとって存立しえたのか」 (内山,137) 、次に、福武氏の問題提起に寄せて、「農民のいかなる側面に『打算的合理的傾向』が窺えるのか、また華北農民には果たして『非合理的非打算的な親密なる協力感情』がないのか、さらに『打算的合理的傾向』は『共同関係』成立の阻害要因となるのか」(内山,139) をあわせて検討し、農業生産における共同関係の意味について追求しようとするものと、考えられる。 内山氏が『慣調』を利用して、当時の調査村の一つである順義県沙井村の搭套慣行をめぐって考察した結果、搭套という語の由来、搭套の発生理由、搭套農家間の結合方法などの事実が明らかにされた。そして、氏は工夫した図表と説得力のある分析の上で、以下の結論を導き出している。 ①「搭套関係は、農業生産力の維持強化の上から必要不可欠の農業慣行であったことが窺える」。②搭套関係の発生理由について、「農繁期の労働力不足、さらに運搬および耕作に関する農業生産形態自体も関与していることが推察される」。③搭套の結合方法については、「同族結合が唯一の決定要因とはいえない」。④搭套関係がある農家間には、「経営規模に大きな格差が存在して」いる (内山,140,144~145) 。 以上の中で、第④の結論は最も検討すべき重要な問題を提起している。 この結論の上に、氏は、「同一の生活空間としての村落に居住する村民同志に、一種の貧民救済的機能が存在していたのではないかと考えられる。つまり生活空間としての『共同体』的集団そのものの維持のために、構成員の生活をも支えようとする伝統的温情主義的機能の存在が要請されていたのではないかということである」と推測している (内山,145)。さらに、旧来の搭套慣行は、近代(特に1940年前後)において、社会変動及び農業生産活動の変化に従って、「その運用範囲および個々の農家における農業生産上の意味も変更していったと考えられる」(内山,148~149,151) と問題提起をしている。 搭套慣行研究における内山氏の重要な貢献については改めて論ずるまでもないので省略し、ここでは内山氏の研究のもつ問題点をストレートに指摘しよう。 まず、搭套農家間に経営規模の大きな格差が存在していたという氏の結論は福武氏に対する反論として搭套慣行さらには華北村落社会への性格評価に直接に関わる重要なものであるが、この結論を裏付ける説明は僅か数語で止まり、またこの説明を支えた論拠は『慣調』第1、2巻から取った土地畝数•役畜•農具に関する固定的数字である。問題は、氏がこれらの数字の変動を看過し、充分な分析作業を欠いていることである。 内山氏は村落の「伝統的温情主義的機能の存在」及び社会変動にともなう搭套慣行の変更ということを推測した。この推測が村落共同関係研究の要所を提示しているが、伝統的温情主義の実体とそれが存在し得る社会的基礎はいかなるものか、社会変動及びそれに伴う農耕上の共同の変更はいかなるものか、具体的裏付けが必要とされよう。 温情主義的救済機能の存在、搭套の農家間に経営規模格差の存在という結論は、氏が多くの日本人中国農村研究者と同じように近代村落社会における階級的緊張や対立を無視し、又は注意しなかったことを反映している。 次に、内山氏の研究は『慣調』第1、2巻の資料を利用するのみで、その事例は華北の一農村に限定されている。このような研究方法は、個別事例の解明を通じて、農耕上の共同の実像をとらえ、一つの村の分析から、華北農村の全体像をうかがうことを主たる目的としているが、華北農村を全般的に比較して総括している訳ではない。しかし、同じ華北農村といって、地域によって自然環境と生産力水準、村内の社会的結合と階級関係状況、商品貨幣経済発展の段階、伝統慣習などの面においてかなり差異があろう。それらの差異をあわせて、搭套を含むさまざまな農耕上の共同の意味を追究し、比較する余地があると思う。ちなみに前近代朝鮮半島・日本・東南アジアの農村、また近世中国農村における農耕上の共同と比較することも有益であろう。 最後に、内山氏の華北農村研究には、「中国革命全体を長い視野で見直す」(内山,2)という問題意識が見られるが、搭套慣行などの農村共同関係の研究においては、実態究明に止まり、村民結合の強さの発見や、「共同体」的側面の指摘に止まっている。これは、氏の個人的問題関心や研究目的によるものであろうが、氏の上述の問題意識から出発して、旧中国農村の農耕上の共同を、現代農村社会の変革――商品経済の浸透、農民層の分解、土地革命の展開――と結びつけて把握すること、又、中国農業発展の方向を規定する一つの要因として展望することは、依然として重要な課題である(10) 。 筆者の知見の限り、近代華北農村の搭套慣行に関連する資料と研究業績は上述の通り極めて限定されており、その中には漠然とされたり誤解されたりする問題点が多く残されている。それに何よりも中国人の学者が搭套慣行にはまったく触れていないことは大変残念である。よって本稿に自課した任務はとりあえず筆者の新たな事実発見をもって搭套の実態及びその社会物質的基盤の規定性を解明することとする。なお、既往の研究への検討を含めて、搭套慣行に見られる農民行動の動機・規範及びその歴史的・地域的な性格への把握、そして中国社会への新たな理解を試みることは次稿に譲ろう。 二、搭套の意味 漢語としての「搭」は、「搭夥」、「搭伴」、「搭幇」、「搭当」等の言葉が示したように、一緒に協力する、仲間を組む、相棒をつくるなどのほかに、ものを交わす、重ねるという意味がある。さらに、牲畜の体を犁、車と繋ぐ皮革、縄器具は「套」という。例えば、「牲口套」、「套具」などがそれである。一方、「套」は、動詞としても挽役畜に馬具をつけて車に繋ぐという意味で使われている。では、一つの農耕上の共同慣行としての搭套とはどういうことであったのか、また当時の村民たちは具体的にどのように搭套という語を理解していたのであろうか。搭套という語は中国農村社会史研究者によく知られているとはいえ、その定義を推敲する余地がある。 まず、搭套の語義の由来から始めよう。当時の満鉄調査員は沙井村の共同労働について特に関心をもっていたため、搭套に関する応答が『慣調』の第1、2巻の中に数多く収録されている。その中、沙井村民の有識者の一人で、杜各荘の教員でもあり、そして1920年代から前後三戸の農家と搭套をしていた呉殿臣の応答は、次のようである。 搭套の言葉の古い意味は如何==驢馬の体を繋ぐ縄を套という。搭は互いに交わること。「搭夥種地」という言葉あり(『慣調』,Ⅰ-121,【搭套の語意】)。また、沙井村小学校の教員であり、隣村望泉寺出身の劉悦は次のように説明した。 搭套とは縄を鎖型に結び合わす意味(『慣調』,Ⅰ-105,【搭套】)。 1994年に筆者が沙井村を訪れた時、村民張林炳(当時、69才)氏は套について、「牲畜の体を犁や劐子(犁より軽く、多くは中耕あるいは種みぞを掘る時に用いる農具)、車、砘子(播種した後、土を押しつける農具)等農具と繋ぐ二本の縄がある器具を套という。搭套の套はもともとこの意味だ」(11) と述べている。 以上の応答から分かるように、順義県の方言である「搭套」という言葉の由来は、実は素朴で、その二つの漢字が示したもとの意味と一致し、役畜の併用( 複数の役畜を共同で使うこと) という農耕作業慣行から生まれたのである。 次に、一種の農耕上の慣行としての搭套の具体的な意味と内容とを考えてみよう。実際には、搭套の意味について、沙井村の村人の間に大きな見解の差異が存在していた。以下に、『慣調』にある村人の個々の応答により搭套の概念規定を整理してみる。 (1) 狭義の、本来の意味での搭套 多くの村人の応答から、もっとも狭義の搭套概念、すなわち本来の意味での搭套が存在していたことを明らかにすることができる。 例えば、当時の村内の有識者といわれた楊澤(会首、37才)、張永仁(会首、64才)、杜祥( 司帳、57才) 、趙廷奎(村民、38才)の四人は、満鉄調査員に対し、「搭套は普通役畜類のある家同士に行われ、役畜に人もついて行って助ける」 、「農業以外の共助関係に搭套といわれるものありや==なし」と一致して応答した(『慣調』,Ⅱ-13,16) ほかにも、搭套は、昔から変わらず、「別のことは何もない。ただ家畜と農具とを互いに使うことだけ。人も参加する」、「家畜を使う時だけ共同する」ということであり、日常の生活においては行われず、また農業作業の全部ではなく、農繁期の播種と収穫に限って行われている。故に、搭套には、自衛・作物の看視・除草・農具だけの借用や家畜なしの手助けなどが含まれてはいない(『慣調』,Ⅰ-121,呉殿臣)とか、「幇工と搭套と違うか==幇工は人が助けに行き、搭套は動物が助ける」(『慣調』,Ⅰ-146,何権、沙井村教員、海洪村人)とか、「搭套は驢馬だけか==搭套は役畜の場合に限る」、「農具には行われないか==役畜だけである」、「一方で農具、大車、犁杖を出し他方で驢馬を出すのはないか==搭套はない」(『慣調』,Ⅰ-149,楊潤、会首、37才)という上述と同様の、しかもいずれも明確で、具体的な認識がある。 以上にあげられたのは、搭套の概念規定に関するもっとも厳格な解釈であるが、やはりこれが現在でも沙井村民の認識の主流である。1994年沙井村を訪問した際、このような認識は村の老人たちによって再確認された(12) 。以下は、上述したような搭套の内容規定を、「狭義の搭套」という語であらわすことにする。 狭義の搭套の基本規定には、①共同の両方( 又は三家) がそれぞれ役畜を出すこと、②農繁期の播種と収穫の農作業に限って行うこと、③あらかじめ約束があること、という三つの要素があると考えられる。 搭套はその名の示すとおり、役畜を出し合って共同に使用することを中心とし、共同の両方がそれぞれ各自の役畜を出して始めて成立する。したがって、多くの沙井村民の考えでは、ある農家がいくら多種の農具を保有していても、役畜がない限り他人と搭「套」できないということであった。実際にも両農家があわせて役畜一頭しかもたないならば、農繁期の農作業にはなお畜力不足の問題が解決できないので、このような共同は無意味で、存在し得なかった。また同様な理由で、農具だけの借用や家畜なしの手助けなどの共同労働に対しては、別の名称で呼んでいるので、搭套とは言わなかったのである。故に、「搭套はしないか==役畜がいないからなしえず」、「搭套はしないか==驢がないからできない」(『慣調』,Ⅱ-45,杜福新、楊紹増,【隣助関係】、【搭套と驢】)、「(両農家が互いに十日間位働き援け合うことが)搭套でないというのはなぜか==畜を貸し借りしないから」(『慣調』,Ⅱ-15,杜祥,【驢、農具の搭套】)というような、この狭義の搭套の概念規定とぴったり一致する認識がよく見られる。その反面、搭套関係においては、役畜さえあれば、人の労力の支援があるか否かは厳しく規定されておらず、また第三者から借りた役畜で、もしくは共同購入、飼育した役畜で参加しても差し支えなかったようである。 近代華北の畑作農業における役畜の必要性は、播種と収穫期にあたる整地(耕、耙、労)、種蒔き(作条、覆土、鎮圧)、糞肥料と収穫物の運搬に集中した。これ以外の農作業においても労力がもちろん必要であったが(例えば、間引き、除草、灌漑など)、役畜を使用しないので、たとえ共同労働があってもそれも搭套とは言わなかった。また、実際にも、沙井村の農家は搭套するか否かを問わず播種と収穫期以外の農作業においては共同せず各々で行うのであった。農作業以外にも村人の間に大量の共同行動(例えば、作物看視、村の防衛、冠婚葬祭、家屋建造など)がよく行われていたが、それらは明らかに狭義の搭套の①と②の規定に合わず、普通搭套と認められなかった。 搭套しようとする農家はかならず農繁期に入る前に、あらかじめ搭套の期間、方法、内容について相談して約束をする。この約束は口頭によるものであり、必ずしも厳密な規定とは言えないが、いったん成立すると途中で中止したり変更したりすることができない(13) 。約束なしに臨時に農繁期に共同労働をすることがあったが、それは形式、方法、内容上で、搭套とはいっさい変わらないと言っても、やはり多くの村民には搭套関係とは見なされなかった(14) 。搭套の成立、中止、期間と規模について、別稿で検討したい。 前述した順義県各地の農村の搭套慣行に較べ、上述した沙井村における狭義の搭套の概念規定は異例なものではないであろう。搭套に関しては、沙井村だけではなく、華北各地の多くの村においても、このような共通した実情の把握が存在していたと思う。 (2) ほかの搭套像 沙井村の村民全体の間で、搭套そのものの捉え方に差異がなかったわけではない。『慣調』の第1、2巻の中には、搭套に関して当時の沙井村村民の応答にかなりの開きがあったことがうかがえる。例えば、 教員劉悦は、一家に驢が弱小で困るときに他家から強馬を借りて援助を受けることを搭套の一例と考える一方で、労力を出して助け合うことも搭套とみなし、また一般の日常生活の場合にも搭套があると考えていた(『慣調』,Ⅰ-105~106)。教員何権は、搭套における役畜の要素を指摘したものの、驢馬一匹を持つ甲家が、驢馬のない乙と共同で耕作することを搭套と見なした(『慣調』,Ⅰ-146)。杜祥は、劉悦や何権と類似した見解、すなわち、一方が役畜を貸し、他方が農具又は碾子を使用させるようなものは、臨時に一回のみ行うのではないかぎり搭套といえる、との認識をもっていた。また彼は、農具を相互に貸借することは搭套ではないとしたが、共同に農具を購入し使用することは搭套であると考えていた(『慣調』,Ⅱ-15,【搭套の意味】)。張永仁の以下の見解も狭義の搭套とずいぶん食い違った。「(搭套というのはどういうものか==)二戸の家が互いに貧乏で驢馬がないというような時に共同して買って使うことをいう、驢馬に限らず種地の時等互いに助け合う、また短工を雇うような時にも二戸で金を出し合ってすることあり」(『慣調』,Ⅱ-214,【搭套と共同購入】)という。もっとも離れた考えとして、村民の李匯源は、自分が他人の役畜を借用することや小作地の地主に一方的に奉仕することを搭套と見なした(『慣調』,Ⅱ-41,【隣助関係】、【搭套の意味】、【搭套】)。 このようなさまざまな認識を整理してできたものは、上述した狭義の搭套とは全く違う別の搭套像である。即ち搭套は、ⅰ.他方からの役畜の借用により畜力の不足を補強するという一方的な借用-援助の関係を搭套と呼ぶ( 劉悦、杜祥、李匯源)のみならず、ⅱ.一頭の役畜のある甲農家と役畜のない乙農家と共同で耕作することも搭套であり(何権、杜祥)、さらに、ⅲ. 両農家が互いに役畜を出さずにただ労力のみを出して助け合うことも搭套である(劉悦)、と考えられたり、又は、ⅳ. 共同に農具を購入し使用すること( 杜祥)、ⅴ.共同して役畜を買って使うこと(張永仁)、ⅵ.互いに金を出し合って短工を雇うこと(張永仁)も搭套であり、ⅶ.一般の日常生活の場合にも搭套があり(劉悦)、他人への一方的労働奉仕と支援も搭套である(李匯源)、とされたりした。 これらの村民たちの考えは、狭義の搭套の概念規定にはあまりにこだわらず、概念の外延が漠然と広がっていたようである。ところが、ⅰからⅶまでの項目は、農作業、雇用、生産資料の購入、日常生活などの多くの分野に関わっており、それぞれ一種の共同として実際に沙井村において行われていたが、そのほとんどは搭套と違う名前をもっていたのである。どうもこれらの村民たちは何らかの共同関係があればそれを直ちに搭套に結びつけてしまう傾向があったように思われる。さらに、第ⅰ、ⅱ、ⅳを除き、第ⅲ、ⅴ、ⅵ、ⅶ等の諸事例が、狭義の搭套関係を持っていた農家の間で多少とも実際に行われていたためか、またⅴ、ⅵの事例が沙井村ではごく珍しいが、搭套関係のある一部の農家の間でしか行われていなかったためか、これらの村民たちは、狭義の搭套を行っていた農家の間での他の様々な共同関係をも、皆「搭套」という語で表してしまっていたのではないかと考えられる。このような捉え方では、まさにあらゆる農村の共同行動は搭套に等しいということになるであろう。 さて、上述したような様々に異なった実情把握に対して、我々はどのように受け止めるべきであろうか。内山雅生氏は、「搭套が村落を単位として組織されている訳ではなく、二、三農家の個々の関係として存立しているという現状」、「各応答者の搭套そのものの捉え方」によってこの差異が生じているという考えにより、「既に清末光緒年間に存在していたという農業慣行としての搭套は、沙井村民の中では、……大まかな概念規定がなされている」、「相互扶助の対象となる農業労働の範囲となると、……各応答に見られる実情把握にはかなりの開きがある」と議論している(内山,139~140)。確かに、当時の村人たちの間で、搭套が一種の農耕共同と認められたものの、この共同がどのような形式で、またどのような範囲において行われるのかについて様々な理解があったし、満鉄側の質問方法及び『慣調』にある記述にも問題があると思われる。しかし、このように述べる内山氏は、沙井村や順義県各地において、搭套に関して、より明確な概念規定が存在していたことを見過ごしている。『慣調』にある大量の調査事例から見るかぎり、狭義の搭套概念が主流であり、その意味はきわめて明確であるといえよう。 三、搭套発生の原因 1.華北農村の生産条件――畜力の過不足 近代華北農民にとっては、役畜の必要性は言うまでもなく、特に畑作における播種と収穫両農繁期に当たる整地(耕、耙、労)、種蒔き(作条、覆土、鎮圧)、土糞と収穫物の運搬等の諸主要農作業に役畜は必要であった。しかし、農繁期に至っては華北のどの地方でも大多数の農民は畜力の過不足の問題に直面し、この畜力の過不足は搭套などのような農耕共同の直接の原因となっていた。当年の満鉄調査員が当地の農民たちに搭套の原因について聞いた時、彼らは迷わず驢のことを挙げたのである。 搭套は)貧乏人が多いため極めて盛んに行われている(Ⅰ-44、【村の制度】、十里堡村民)。人が足りず馬とか驢の足りぬときは援け合う(Ⅰ-77、【協同-搭套】、郝家疃村民)。何月頃が最も搭套を必要とするか==三月頃の農繁期(Ⅰ-118、【搭套】、沙井村村長楊源 )。現在の搭套は何組位あるか==驢が不足なので、村民の大部分が搭套している。最近ふえたのか==否、従来とかわらない。搭套しない人もいるか==いる。そんな人は少ないか==少ない。搭套する人としない人と何れが多いか==しない人は三分の一。する人は三分の二(Ⅰ-222、【搭套】、沙井村村民杜祥 )。搭套せる人の共同作業はどんな時するか==播種と収穫、この二回は必ず助け合う(Ⅱ-16、【搭套の性質】、沙井村村民楊沢、張永仁、杜祥、趙廷奎 )。搭套はどんな場合に行われるのが多いか==本村の人は大抵貧しくて驢馬一匹しかない。耕作には一匹では足りないから驢馬をもっている人を探し二人で二匹の驢馬を共同して使う(Ⅱ-149、【搭套】、沙井村村民楊潤)。 搭套と同様な農耕慣行が山東省西部農村一帯では「合夥」、「合具」と言われていることは前述した。典型的な内地農村である平原県後夏寨村においては、当村の老人王廷章、王会遠両氏は筆者に、「昔は農家個人が独りで耕作できないので、大部分の農家は合具をしていた。このような農家は全農家の90%近くを占めていた」と述べている(15) 。 農民たちの応答の中では、農家の貧しさの問題もしばしば搭套の原因として言及されたが、何故農民たちがもっと多くの役畜、少なくとも2頭以上の役畜を飼わなかったのかを問うと、華北農村の農業生産条件の問題が浮上してくる。華北農家の普遍的な畜力不足は、まさに当時の華北農村における悪化した生産条件の上で表面化したものと思われる。当時の沙井村では、純自作農家が1頭の驢を養い得るには15畝(1畝はメートル法換算で6.14アールに相当する)以上の土地が必要であると、多数の村民は証言した(『慣調』,Ⅱ-65,【耕地と役畜•家族の役割】)。しかし、村民の所有地は平均1戸当たり14畝強にしかならず、さらに土地配分の偏在のため土地を15畝以下しか持たない農家は計45戸となり、全農家戸数の65%に上っていた(『慣調』,Ⅰ-巻首、河北省順義県沙井村の概況)。これで、沙井村の貧しさと役畜の飼育条件の悪さが自ずと分かろう。 経営土地面積と役畜の飼育条件との関連について、沙井村の老人は、農家の土地の経営面積と草を中心とした役畜の飼料とは正比例したこと、10畝の経営土地面積は一頭の驢を保有する最低条件であり、それ以下の土地なら役畜の飼料特に冬の飼料を保証できないこと、また10畝以上の経営土地面積があっても、役畜は常に使い場があったわけではなく、長い期間使わずに置き、非常に不利益であったことを指摘した他、後夏寨村の老人も牛の飼育条件として飼料供給源となる一定の経営土地面積の重要性を述べた(16) 。 沙井村の大部分の農家は到底二頭の役畜を養う能力を持たなかった。後述のように農繁期の農作業には複数の役畜を必要とするので、他農家と一緒に互いの役畜を共同で使用することを余儀無くされていた。従って、搭套は個別農家の要求ではなく、華北農家で普遍に発生した畜力不足の状況により発生したのである(17) 。 2.労働力の過不足 華北農村における労働力の過不足も搭套発生の一因であると思う。近代華北農村において畜力の農閑期の剰余と農繁期の不足という対照に似て、「人多地少」という一人当たりの土地の不足と農繁期における労働力の不足とが同居していた。 『慣調』第1巻巻末の「順義県沙井村戸別調査集計表」及び第2巻にある「順義県沙井村十七戸農家個別調査」を調べると、当村農家の労働力状況は次の表の通りになる。 労働力数 0~1 2 3~4 戸 数 49 13 7 % 70 19 10 上表は1942年 3月の時点における沙井村全農家の労働力状況である。主要労働力を2人以下しか持たない農家は全農家の90%を占めているが、彼らの経営土地は必ずしも少ないわけではない。『慣調』の中に記入されていない17才以下の半労働力及び婦女労働力の状況を含めて考えても、上述の状況は僅かしか変わらないであろう。 このような一農家に1~2人の労働力状況では農繁期に顕著な労働力不足となった。これは、1~2人では農繁期の播種と収穫両作業における巨大な労働量に耐え得なかったばかりでなく、後述する華北の畑作農法にも対応し難かったからである。とくに播種作業においては、作条、下種、糞撒き、覆土、鎮圧という仕事が一貫の段取りとして一気になし遂げなければならないので、最低限でも4人は必要であった(18) 。 農繁期にいたると、どの農家も忙しいため、その時には、ただの労働支援と役畜の無料貸借はほとんど望めないのである(『慣調』,Ⅰ-288,【短工】;Ⅱ-148,【農具の雇と借】)。勿論、人を雇用することは一つの解決策であるが、多くの農家がほとんど人を雇う能力がなかったことは忘れてはならない(19) 。従って、全体的労働力の缺乏が争えない事実である以上、搭套は大部分の農家にとって頼らざるえない手段となった。 3.華北の畑作農法 一頭の役畜では農繁期の諸作業に対応し得ないことは、想像に難くないであろう。一頭の驢だけでは大車や犁などの農具を引けないという理由があるし(『慣調』,Ⅱ-149,【搭套】)(20) 、大変な労苦と非効率も当然なのである。しかし、複数役畜の共同使用を中心とする搭套慣行の根本的な意義は、苦労軽減と効率向上のみに止まらず、この慣行が最終的に近代華北における畑作農法(旱地農法ともいう)によって要求されていたという点にあると思う(21) 。ここでは、農法全般に関わる議論を避け、役畜の使用及び搭套慣行と密接に関連し、農業生産の全過程でもっとも重要である耕起と播種作業に限って検討したい。先ず、沙井村老人の言葉で五十年前の播種作業の基本的な流れを描こう。 播種をする時、1人は2頭の役畜を駆り「劐子」をひかせて溝を作り、これを「劐溝」という。後ろで1人が種を撒き、またそのうしろで1人か2人が糞を撒く。そしてその後ろで1人が1頭の役畜を「砘子」につけて溝を埋め、種・糞と土を押しつけて密着させる。これを「砘地」という。人手が少ない場合、一応ここまでで あるが、人手が多いなら、さらに「砘地」の後ろで1人か2人が2頭の役畜を駆っ て「盖」を曳かせ溝を平らにする。この「盖」という仕事の次に最後の「圧」がある。驢に「磙子」(碌轆ともいう。土地を平らにする石製ローラー)を引かせ土をさらに押しつけて平らにするのだ。以上が播種作業の全部の流れだ。「盖」と「圧」はその一、二日以後になしても構わず、土地の水分が多い場合は、むしろ少し時間をおい た方がいい。「盖」と「圧」の前の仕事――「砘地」(「収坑」、「弥溝」ともいう)は、一気に終わらせるべきだ。全部一緒にやるなら、6、7人を必要とするが、我々はそんな人手がいないし、役畜も2、3頭しかないから、そのようにできず、別々に行う他はない(94-沙井村,楊福・張栄)。 以上の播種作業における各部分を一気になし遂げるには、6・7人の労働力と4・5頭の役畜を必要とするのである。沙井村と近代華北農村の農家は個人では無論のこと、2、3軒の農家が組んで搭套をしてもそんなにすることができなかったし、またその必要もなかったのである。近代華北各地農村において普遍的に採用されていた畑作播種法は、「収坑」までの諸作業――作条(「劐溝」)・下種・糞撒き・覆土と初歩の鎮圧(「砘地」)――を一つの段取りとしてまず行い、「盖」と「圧」という一層の摩平(地ならし)と鎮圧をその後で行うのであった。 華北の旱地とくに春旱下の播種において最も恐れるのは土地の水分の枯燥なので、作条と下種•糞撒きを行うと同時に、その後ろですぐに役畜を「砘子」につけて溝を埋め、種・糞と土を押しつけて密着させるという覆土と初歩の鎮圧作業をしなければならなかった(役畜がなければ人の足で同様な作業を早速行うが、足跡相接して行進するので、その低い効率は想像できよう )。初歩の鎮圧作業までを一気にしなければならない理由は、当村の老人がいったように、乾いた土地の場合、作条してから覆土と初歩の鎮圧(「砘地」)をせず1、2時間が立つと、作条した土が日干しされてしまい、この固まった土では作物がもはや生長できないので、作条をやり直さなければならないからである(94-沙井村,張林炳)。これは、まさに古農書に指摘されたような「撻(古代の「砘子」)を曳いて置かざれば、根が虚となり、生えてもすぐ枯れる」( 『斉民要術』巻一、種穀篇 )ということであろう。この華北的農法は、華北の厳しい春旱の下で地湿を保衛し、発芽を安全にするのに極めて適切で、重要である。 ところで、以上のような播種法を保証するには、最低限度二頭の役畜、しかもその内の一頭が強畜であることが必要である。すなわち、「劐子」を曳かせる1頭の強畜又は2頭の驢と、「砘子」を曳かせる1頭の驢なのである。しかし、『慣調』第1巻巻末にある「順義県沙井村個別調査集計表」を見ると、この条件を満たす農家はせいぜい4軒しか数えられない。これこそまさに、搭套慣行のような農耕上の共同が華北農村において盛んに行われていた所以であろう。 華北的農法において複数の役畜を必要とする農作業は播種に限らなかった。一年の農事の出発点となる耕起作業は、人手こそそんなにたくさん要らなかったが、2頭の役畜が必要であった。同じ張林炳氏からの教示であるが、当時の犁が大変重くて1頭の牛ではひけないので、2頭の強畜(馬かラバか)が最も理想的であるが、普通1頭の強畜(馬かラバか牛か或いは大型の驢)と1頭の驢を組みあわせて初めて耕せるのである。2頭の小さい驢なら、小さいサイズの犁につけて引かせるが、不効率であるだけではなく、耕土層が浅いので耕起の効果はよくないという(94-沙井村,張林炳)。深く耕すのは土壌を起こし、砕いて作物の活動に望ましい土壌環境、即ち耕土層を形成することであり、深土の風化を促進し、土壌に団粒構造を与え、作物の生長に必要な水分、空気、植物栄養素を耕土層に保有させるのである。故に、華北農村には「 深耕一寸、頂一茬糞( 一寸深く耕すや、一回の施肥に匹敵する) 」という農諺がある。また、華北の畑作農法においては、その日耕された土地の面積の多少を問わず、必ずその日の内に蓋磨という土塊の荒砕き、細砕、鎮圧などの諸畜力作業をしておく。後夏寨村の場合、典型的な黄土旱地であるので、午前に一畝を耕したら早めに初歩の蓋磨作業(「耙」という)を行い、午後にまわしてはいけないのである。そうしないと、すぐ巨大な堅い土塊が結成され、地中の水分も保てず、後に播種をしても無駄になる、という(94-後夏寨,王廷章、王会遠)。 華北畑作農業において、深耕と耕起•蓋磨の一貫作業及び上述した播種作業は複数役畜の敏速な畜力作業と複数労働力の協同作業を要求していたのである。従って、搭套のような役畜の共同使用を中心とする農耕慣行は、単に耕作効率の向上や農作業での労苦の軽減を目的としたのではなく、農業生産過程にある至上至要の根本に由来したのである。搭套は、正に当時の農業生産を維持する上で必要不可欠な農耕慣行といえよう。 四、搭套の方法 近代華北農村における重要な農耕共同であった搭套慣行は、従来各国の学者に大いに議論され、日本及び東南アジア農業・村落社会研究において一つの比較対象としてもよく語られてきた。しかし、この農耕共同が耕作や収穫などの農繁期の諸作業において具体的にどのような方法で行われていたのかは実は誰にも言及されていない。言い換えれば、搭套慣行の実像に関する学者の認識把握は未だ漠然とした印象に過ぎないといっても過言ではない。そして、戒能通孝氏、福武直氏から内山雅生氏までの研究においては、搭套慣行における人間的結合方法とその規定について、その詳細さが様々ながら考察がなされたが、搭套の農家がどのような方法で共同作業を行い、つまり搭套をどのような方法で最後に実現するのかは重要視されてこなかったのである。このような欠陥により、搭套の方法に関する諸学者の断片的議論には明らかに搭套そのものに対する誤解が現れている。例えば、戒能氏の搭套のイメージは、「 一人では馬(驢馬)を買ひ得ない程度の農民が、親しい中から仲間を求め、二人又は三人で一匹の馬を購ひ、之を出資者の共有物となした上、耕作に必要な時期になると、今日は甲乙して其の馬を使ひ甲の土地を耕すが、明日は同様にして乙の土地を耕す」(22) というものであり、①搭套は役畜の共同購入から始まり、搭套同士の役畜は皆の共有物である、②搭套は1頭の役畜で出来る、③搭套同士は互いの土地を分けて耕す、と読みとれる。また、内山氏の搭套の概念規定では、「単に役畜の貸借にとどまらず」とか、「 単に畜力の交換のみならず」とか、その後に「人力提供も含め」、「人力提供も必要」(内山,140,147)と述べられているものの 、搭套における役畜使用関係については、役畜の貸借・交換的性格のみ見られ、役畜の共同利用と人間の共同労働という本質的な点が忽視されているように思われる。思えば、搭套慣行の本質を正確に把握するには、搭套の方法に関する搭套作業の内容、作業法と搭套農家同士の相互作業順序、食事方法、経営規模や労力支出の不均等による弁済方法など搭套そのものがどのようなものであったかという問いに答えなければならないであろう。 1.搭套作業の内容 搭套の内容と範囲に関して、前述した「搭套の意味」においてすでに触れている(23) 。その内容からも、搭套とは役畜の共同使用を中心とするものであることが窺えよう。筆者は1994年に沙井村と後夏寨村で張林炳、李広明、王会遠と王廷章らの老人たちからも同様な意見を聞いた。搭套の作業を行う時、搭套同士の双方は必ず自分の役畜を互いに出し合い、必要な農具もそれぞれ持ち出し、双方の人が一緒に作業に参加することが殆どであった。時には、例えば、搭套の双方が播種の作業だけを右の如く共同で行い、収穫の時は別々に行なったり(『慣調』,Ⅱ-19,【搭套】趙廷奎;Ⅱ-119,李広恩)、播種・収穫・土糞運搬など諸作業の中のある部分のみに人が役畜を連れて参加し、他は役畜を出すだけで人が参加しなかったり、互いに役畜について行って仕事を助けるかどうかを決めず、「その時の都合による」(『慣調』,Ⅱ-15,【驢、農具の搭套】杜徳新)としたりすることがあった。やはり、播種や土糞・収穫作物の運搬など役畜を要する仕事以外の手作業については、共同せず各々行われるという傾向は感じられる。ちなみに、他の華北地域の例を見ると、山東省歴城県冷水溝村の合具慣行においては除草や収穫期の手作業なども共同で行われており(『慣調』,Ⅳ-27,【合具の相手】)、この点は沙井村との大きな違いが見られよう。一方、河北省昌黎県侯家営村の搭套の場合、春の耕作だけを手伝い合い、収穫を手伝わないという点は沙井村に近いであろう(『慣調』,Ⅴ-26,【打具・搭套】)。 2.搭套の作業法――播種作業を中心に 搭套時の作業法について、戒能氏以後、1980年代にフィリップ•ホワン氏も簡略ながら再び言及した(24) 。沙井村における搭套の実情を見ると、搭套農家の労力とくに畜力の組みあわせ方は大体二つあったようである。その一つは、搭套農家が播種作業(粟、小麦等)をする時最低限度必要である労働力4人と驢2頭を動員するものであり、もう一つは、5人労働力に加えて、大型の馬かラバを含む2頭の役畜あるいは驢3頭で一組とするものである。この異なった組みあわせ方によって、実際の搭套の播種作業は以下のような二種類の方法となった。 (1) 「倒菜缸」――2頭の驢の場合 1頭の驢だけでは劐子をひけないので、普通はこの2頭の驢を劐子につけて1人が操縦し、溝を造る(「劐溝」という)。その後ろで1人が種子を溝に撒布し、またその後ろで1人又は2人が種子の上に施肥する。施肥の作業は手間を要する仕事なので、1人では播種の進度に間に合わないことがある。施肥の後、速やかに「砘子」という道具を使って覆土・鎮圧(「弥溝」という)の作業をすべきであるが、「砘子」を牽く役畜が余っていないので、人の足で「弥溝」をするか、或いは暫くこの作業を後回しにして、「劐溝」が一段落して、その役畜が回されてくるのを待つか外はない。人の足で「弥溝」をする方法では明らかに前の進度に追いつかず、沙井村ではほとんど使われていなかった。後者の場合は、土壌の水分が多い場合は1、2時間待っても構わないが、乾いた土地の場合は長く待ってはいけないため、前の諸作業をいったん止めて、その役畜に「砘子」を牽かせて早速「弥溝」をするのである。 いずれにせよ以上の播種作業方法では、頻繁に役畜に劐子と砘子をつけたり外したりしなければならない。この故、この作業方法は昔から北方色ある諧謔的な名称――「倒菜缸」で呼ばれてきた。これは、1994年と1996年に筆者が沙井村を訪問した時、当村の多くの老人が教えてくれたものである。「倒菜缸」とは北方人が野菜を塩漬にする一つの製法であり、一定の期間の間隔で漬物甕(「菜缸」という)の中にある野菜をいったん出して、干してから又入れる作業(「倒」という)を何回も繰り返して充分にまた満遍なく味をつけ込むという工夫である。以上の播種作業方法に見られた面倒臭さはまさに「倒菜缸」の比喩にふさわしいのであろう。当時、多くの農家が持っていた役畜は小さくて弱い驢であり、時に村民は自家の驢は大きな犬に過ぎなかったと冗談を言う(25) 。沙井村の搭套においては、このような2頭の弱い驢の組みあわせで「倒菜缸」をする例は少なくなかったと思われる。実際、1頭の強い役畜と1頭の驢の組みあわせでも、湿地又は雨後の土地で播種する場合なお「倒菜缸」を余儀無くされるのである。故に、村民の記憶では、沙井村の農家はほとんど「倒菜缸」をしたことがあるという(94-沙井村,楊福)。 (2) 「一連套」――1頭の強い役畜と1頭の驢または3頭の驢の場合 搭套の農家同士が労働力を5人、役畜を2頭、但しその内の1頭が大型なもの(馬かラバか強い驢)、または驢を3頭備えているなら、播種作業を行う時1人は先頭で1頭の大型な役畜又は2頭の驢と劐子御し、溝を造り、その後ろで1人が種子を撒布し、2人が施肥する。一番後ろで1人が1頭の驢に「砘子」を牽かせ「弥溝」という作業をすることになる。 このような労働力・畜力の組みあわせは沙井村村民たちの言葉では、「原套」(96-沙井村,張林如)とか「配套」(94-沙井村,張林炳)及び「一連套」(94-沙井村,楊福 )と言われており、それは「一揃い」、連続して一貫するという意味である。この組み方による搭套の播種方法は最も理想的であり、これによって播種作業は間断なく一気になし遂げられ、「倒菜缸」のような面倒を免れることができるが、沙井村ではその条件を備えた農家少なかったので、やはり搭套の主流とはならなかった。ちなみに、フイリップ•ホワン氏が言った搭套作業法はほかではなく、この「一連套」法であろう。 3.搭套の作業順序 農家が搭套を約束する時、どの家が先に役畜を使うのか、どの家の土地から作業を始めるのかという作業順序についてはまえもって決めることはなかった(『慣調』,Ⅱ-15,【驢、農具の搭套】)。大体その場になって「相談し随便にきめる」のであった(『慣調』,Ⅴ-171,【跟駒・雇套】)。その理由は「必要なときには互いに助けるので、順序はない」(『慣調』,Ⅱ-57,【農具購入】)とか、「色々の事情により順は必ずしも一定せず」(『慣調』,Ⅴ-171,【跟駒・雇套】)とか挙げられる。しかし、その場で決めるといっても具体的な作業順序にはなお一定のルールがあった。 まず、自分の土地から先に作業を行おうと要求することはなかった(94-沙井村,張栄、楊福)こと、また「多く物や人を出す方を先にするわけではない」(『慣調』,Ⅴ-171,【跟駒・雇套】)ということは搭套農家の共通認識であったと考えられる。大体土地と人手が多い家はいつも早く農作業の準備に着手するので、自然先に始まるのであった(『慣調』,Ⅱ-57,【農具購入】)。また、例えば雨が降った後、高地や乾燥した土地は水分がある内に早く播種し(華北の農民はこのことを「搶種」という)、低地や湿地の耕作は後回しにすることがあった(『慣調』,Ⅴ-171,【跟駒•雇套】)。 以上のような事情がない場合には、甲農家の土地で一日、乙の土地で一日交代して共同耕作するというような作業順序ではなく、両家の土地を区別せず一か所一か所で作業を進めるのであった(『慣調』,Ⅱ-149,【搭套】)。この場合の作業順序は双方の土地の道程順路や準備状況によって決める。例えば、甲と乙とも村の東西両端に土地がある場合、甲の東の土地で共同作業を終えると甲の村の西端にある土地に移るのではなく、付近の乙のを始めるのである。双方の土地が同一場所にあるなら、一番遠いものから始め、遠回りしないことも原則である。 一つの方向に双方の土地が散在している場合なら、次の後夏寨村村民が描いた図で説明してみよう。この場合の作業順序はA→B→D→C、又はC→D→B→Aであり、道順が優先するようである(94-後夏寨,李令義,61才)。張林炳氏の回想によると、兄の張林栄と同族の張瑞との搭套には、双方の土地面積と役畜・農具に大きな格差があったものの、やはり上述したルールで作業を行なったという(94-沙井村)。 甲の畑 乙 A 甲 B 村 道 落 路 甲 C 乙 D 4.仕事の引率分担 搭套が多くともせいぜい3農家間で行われるので、搭套農家は相手がいつ何をやろうとするのか、どんな 農具を必要とするのか、自分が何の仕事をすべきかを皆熟知し、搭套作業を行う時、別に互いに指図せず自ら必要な仕事を担当し自ら引率するのである。一方は仕事を始めようとする時他方は用事があったり留守にしたりする心配もあり得ず、共同作業をする時好きな仕事ばかりを選ぶこともあり得なかった((94-沙井村,張栄)。このように、搭套を行う農家間には一種の相互に信頼し、きちんと責任を果たす関係が存在していた。ただし、搭套の農家は自家の土地の作業を始める前に、相手に仕事時間、内容、必要人数と農具等を知らせる必要がある。以下はその場合のセリフである。 ① おい、あした全員で行こう((94-沙井村,張栄)。 ② 今日僕の家で一緒に食事をしよう。食べたら播種に行こう((94-沙井村,張栄)。 ③ きみ、ローラーを持ってきてくれ、僕も持っていく((94-沙井村,楊福)。 以上のように搭套同士は互いに命令に近い言葉で指示するのである。搭套同士間の親密、信頼関係はそこからも読みとれよう。 搭套の作業法•作業順序•作業の引率と分担などから分かるように、搭套における役畜使用関係は、従来の研究者のイメージと違って、一頭の役畜を使い、互いの土地を分けて別々に耕作すること(戒能)でもないし、「役畜貸借」、「役畜交換」という関係(内山)でもない。搭套作業においては、搭套同士は自分の役畜を相互融通し、共同で分けずに利用するのである。 5.労働力、畜力支出の弁済 搭套農家の間に、双方の土地、役畜、農具、労力等の経営規模と経営能力の格差及びそれによる労働力、畜力支出の不均等は当然存在していた。この格差と不均等に対して、農家たちがどのように受け止めたのかは、戒能•福武•内山以来の大問題であり(本稿の「既往の研究」を見よ)、次稿で十分に議論する必要がある。ここで先に結論を述べておけば、(1)農家は自分と大体同等の経営規模と能力をもつ農家と組んで搭套をし、双方の格差は基本的に大きくなかった。(2)経営規模と能力の絶対的均等は存在し得なかったが、その差から生じた労働力・畜力支出の不均等が搭套農家の損得勘定意識の許容範囲内にあったので、農家はその損得をけちけちと計算することはなかった。許容範囲を越える大きな不均等があるなら、双方の搭套関係は始めから成立し得ない、というのである。 農民が合理的・打算的であるかそれとも感情的・モラル的であるかという従来の立論をやめて、農民の脳中にあるその許容範囲――彼らの行動を指導するガイドラインを検出することは次稿の主旨である。 6.会食と祝宴 近代華北各地の農耕共同において共同労働の途中及び終了後に、農家同士間の会食や祝宴が存在していたかどうかは筆者の大きな関心事であった。なぜなら、あまり遠くない近世華北農村においても、そして朝鮮半島、日本及び東南アジアの前近代農村においても、会食と祝宴が共同労働に終始伴ったものであり、農耕共同の不可欠の一部として重要な役割を果たしていたことがよく知られており、この会食・祝宴の存否の確認は近代華北農村の農耕共同の歴史的、地域的性格を把握する上で、重要な意味があると思ったからである。そこで、筆者は『慣調』などの歴史資料を調べる外、近年沙井村等華北農村を訪問する度に繁を厭わずこの問題について多くの老人たちに聴取を行った。むだ足をしたとは思わないが、最終的に得られた結論はあまりに簡単、近代華北各地の農耕共同においては会食と祝宴は殆ど取り上げるべきものがないのである。 「慣行調査」を行った時には、搭套作業の期間における食事の取り方についてあまり問題として取り上げられなかったため、地元の人々から得られた答えは、双方が自家で「各自銘々に食べる」、「一般に左様な(合具の家同志で食事を共にする)ことはない」、「度々ではない」(『慣調』,Ⅰ-77,【協同-搭套】;Ⅳ-26,【合具関係者の相互扶助】)という程度であった。筆者は94年の調査でこの問題について老人たちと何回も意見交換を行ったところ、上述の見解を事実としてほぼ確認したほか、華北農民の考えでは食事のことは搭套に無関係であり、搭套そのものの一部ではないということを発見した。例えば、 ①後夏寨村村民王会遠 合夥をする時食事を招待しなかった。両方とも土地があり、一人では対応出来ないため一緒に播種をする訳だ。昼頃に各々家へ帰って食事をするのだった。それぞれ二畝の土地があり、互いに助け合って耕作する場合、食事を招待しなかった。互いに帳消しにするように相殺したのだ。私には五畝の土地があり、あなたには全然なく、あなたから手伝ってもらった場合には、食事を招待すべきだ。なぜなら貴方は自分の土地が少しもないのに、わたしの仕事だけをするからだ。あなたに一畝、私に十畝あるという場合には、一緒に午前中又は一日で仕事を終えるので、やはり食事を招待しない。 ②後夏寨村村民王廷章 両家の土地面積が同じで共同耕作するなら、各々で自家に帰って食事をする。その場合には、絶対食事を招待しないのだ。 ③沙井村村民楊宝森 食事はどうするか。正月に一緒に宴会をするか==自家で各々食事をする。正月にも宴会をしない。搭套をするだけなのだ(原語:只是搭套)。 共同労働者間の共通価値と特別な人間関係を再度確認し、再生産するという前近代各地域の農耕社会における会食•祝宴、娯楽の風俗の社会的役割がしばしば指摘されている(26) 。中国古代•近世の農耕共同においてもこのような風俗に関する記録は少なくない(27) 。恐らくこれは当時代文人たちの想像上の産物ではなく、実際の存在であったと思う。しかし、この風俗が何時、どのように華北の農耕共同から分離したのかは、農耕共同組織規模の縮小の原因と共に未渉猟の課題として残されている。いずれにせよ、近代華北農村の農耕共同における会食・祝宴風俗の不在は、共同労働農家間の相互関係の不安定性・不確定性と何らかの関係があり、また搭套のような農耕共同が、すでに人格的な交流や共有価値の保持などの精神活動から脱却し、純粋な生産活動に限られていたということを示しているようにも見える。 近代華北農村の農耕共同においては、数十人規模の共同作業のような大規模な組織化の側面は見られず、会食と祝宴も不在であり、古代ないし近世北方農村の共同農耕労働に伴っていた太鼓叩き、爆竹、秧歌、田歌、戯諷娯楽、収穫祭りなど、労働能率を高め、疲れをとり、親密交歓を促す慣習も見えなかった(28) 。どうも近代華北農村の農民は古代農村社会の先人たちより忙しく、いや窮迫しており、余裕がなかったように思われる。「只是搭套」は如何にも寂しいが、この裸の特徴こそ搭套という近代華北農村における農耕共同の歴史的、地域的性格を示していると思う。 _____________________ 注 (1) 清水盛光、平野義太郎、戒能通孝以来の中国村落の性格をめぐる「共同 体論争」については、旗田巍氏と内山雅生氏には適切な解説がある。旗田巍『中国村落と共同体理論』 (岩波書店、1973年) 、内山雅生『中国華北農村経済研究序説』( 金沢大学経済学部、1990 年)を参照。以下、文中で引用する際、著者名とページ数で略称とする。 (2) 戦後共同体研究の態勢分析において、筆者が恩師岸本美緒氏の研究から借用したものは多い。岸本美緒「モラル•エコノミー論と中国社会研究」(『思想』792号、1990年6 月)を参照。 (3) 近代華北農村における様々な農耕共同の詳細についての検討は、別の機会に譲りたい。なお、近世華北農村における古来の農耕上の共同慣行について、筆者には別の論稿がある。張思「近世華北農村の社会生活――北京市順義県沙井村を中心に」(『東瀛求索』第9号、1998年3月)を参照。 (4) 本稿で多く利用している満鉄慣行調査資料は、1940年前後に河北省順義県沙井村・昌黎県侯家営・良郷県呉店村・欒城県寺北柴村・山東省歴城県冷水溝荘・恩城県後夏寨の6村落で行われた「華北農村慣行調査」(以後「慣行調査」と略称)の調査資料を中心としている。この「慣行調査」で作成された資料は、1952年から1958年にかけて「中国農村調査刊行会」によって編輯され、岩波書店より『中国農村慣行調査』(全6巻、以後『慣調』と略称 )として刊行された(1981年に同書店から復刊)。なお、旧満鉄華 北農村調査資料の価値については、様々な指摘があり、また内山氏前掲書およびフィリップ•ホワン(Philip C.C. Huang)氏の The Peasant Economy and Social Change in North China (Stanford University Press, 1985.中文版として黄宗智『華北的小農経済与社会変遷』〔中華書局、1986年〕がある) においては詳細な批判と評価がある。筆者は、これらの満鉄調査資料は近代華北農村に関する従来の歴史資料の中で最も詳細・精確で、価値が高いものである一方、これらの資料に対する事実の再確認と批判的利用がなお必要であると考えている。なお、搭套に関する記録は、満鉄•天津事務所調査課『遵化県盧家寨農村実態調査報告』(天津、1936年)や北支那開発株式会社調査局『魯西棉作地帯の一農村における労働力調査報告』(北京、北支那開発株式会社、1943年)等の調査にも散見している。 順義県の各地農村の搭套に関する他の記録は、『慣調』には、①県南東にあたる道口、高各荘、王辛荘、田家営、小店、郭子塢、王各荘、太平新荘などの諸村落(Ⅰ-4)、②県の東北東の第八区にある業興荘と溝東村(Ⅰ-10)、③県の真西にある張喜荘(Ⅰ-16)、④県の南東、白河東岸にある李遂店(Ⅰ-41)、⑤県の南西にある馮家営と天竺村(Ⅰ-46,47)、⑥県の北東の白河東岸にある前郝家疃(Ⅰ-77)、⑦沙井村及び周囲一帯の望泉寺、海洪村(Ⅰ-121,146)、⑧県南東楊燕警備路のそばにある小店村と北務村(Ⅰ-162)、⑨県北東端の王泮村一帯(Ⅰ-161)、⑩県の北西端における石槽村(Ⅰ-14)、などがある。なお、文中の(Ⅰ-4)などは、『慣調』,第1巻、4ページという出典の簡略化されたものである(以下同様)。 (5) 『河北省欒城県寺北柴村調査報告(1994-1995)』、郝秋福(74才)、徐小眼(67才)、73~75ページ。この調査報告は、筆者が、「中国農村慣行調査研究会」が1994年冬 季に実施した現地調査に随行して聞き取った調査記録である。筆者は当研究会代表者三谷孝をはじめとする諸先生の厚意により、この調査に参加できることになった。あらためて感謝の意を表したい。なお、本調査報告は、文部省科学研究費補助金(国際学術研究・共同研究)の交付を受けて実施された《中国農村変革の総合的研究――最近50年華北における家族・宗教・社会構造――》(課題番号06044080、平成6年度)の成果にもとづいた中間報告書であり、まだ公表されていないことをお断りする。 (6) 『慣調』,Ⅳ-25~26,357~358。後夏寨村における「合具」と「合夥」については、『慣調』には見当たらないが、筆者の現地調査により、その存在が明らかにされた。現地調査の詳細は次の諸節を参照。 (7) 平野義太郎の華北村落共同体及び農民の共同関係に関する議論は、『北支の村落社会』(慣行調査報告、1944年);同氏『大アジア主義の歴史的基礎』(河出書房、1945 年)に収録されている。戒能通孝の見解は『北支農村に於ける慣行概説』(東亜研究所、1944年)第五章第三節及び『法律社会学の諸問題』(日本評論社、1943年。後、『戒能通孝著作集』第4巻、同社、1977年所収)にあらわれている。 (8) 福武直『中国農村社会の構造』( 大雅堂、1946年。又、『福武直著作集』第9巻、東京大学出版会、1976年所収) 、464~465ページ、496~497ページ。 (9) 旗田前掲書、176~177ページ。 (10)本稿の作成中に、内山氏は「近代化と農村社会」( 池田誠ら『中国の近代化の歴史と展望』、法律文化社、1996年に所収) という論文を発表した。看青という「共同関係」が「中華人民共和国の成立過程でいかに変遷していったのか」、「中国社会の近代化過程でいかなる役割を持っていたのか」という問題を精力的に検討したものである。また、その文末で、氏は「搭套」が農業の集団化の過程でいかなる意味を持っていたのかという今後の課題を自身に課したが、その成果を期待している。 (11)『北京市順義県沙井村調査報告(1994年8月)』、張林炳。この調査報告は筆者が「中国農村慣行調査研究会」(代表、三谷孝)に随行して1994年夏期現地調査で聞き取った調査記録である。ここで研究会の諸先生のご高配に心から感謝の意を表したい。なお、本調査報告はトヨタ財団研究助成金の交付を受けて実施された研究計画(課題名「民衆の視点より見た中国農村変革の研究――華北における村と家族の50年史――」)の成果に基づいた中間報告書の一部分であり、まだ公表されていないことをお断りする。以下引用する際、「94-沙井村,張林炳」のように簡略化とする。他の現地調査も同様。 (12) 94-沙井村,張林炳、李広明(68才)、楊宝森(69才)。 (13) 94-沙井村,楊慶余(69才)、張栄(84才)・楊福(72才)。 (14) 村の老人は筆者に次の事例を示した(94-沙井村,張林炳)。 張林炳の叔父にあたる張成が1頭の驢を持ち、農繁期の農作業の直前に共同作業の相手を探して、役畜を互いに借用したりした。1、2日の作業が終わるとすぐ別れて、関係なくなる。このような共同関係は「搭々」(注:耕す時にちょっと一緒に貸し合うこと)といわれるが、搭套とはいえない。 また、『慣調』,Ⅱ-15,【搭套の意味】には、村民杜祥は、狭義の搭套の意味にあると②の規定と食い違う認識をもつものの、「臨時に一回だけ、かかる事をするだけでは搭套とはいわない。常にかかる事をするような時は搭套といえる」と、③の規定と同じような認識を示した。 (15) 『山東省平原県後夏寨村調査報告(1994年8月)』、王廷章(60才)、王会遠(78才)。この調査報告も、筆者が「中国農村慣行調査研究会」(代表、三谷孝) に随行して1994年夏期現地調査で聞き取った調査記録である。なお、当調査報告の由来及び文中の表記法については、注(11) を参照。 (16) 94-沙井村,張林炳;94-後夏寨, 王廷章。一つの典型例として、当時20畝位の土地を経営していた村民張成が飼育費用を節省するため秋の農事を終えると直ちに驢を売り、翌年の農繁期が来る前また驢を買い、結局張成が毎年買ってきた驢は大体痩せており、体が小さかったという(94-沙井村,張林炳)。この事例は、多くの農家がつねに農繁期における畜力の需要と年間の飼料不足による飼育費用の負担との矛盾に悩んでいたことを端的に語っているのであろう。 (17) なお、華北農村における役畜の飼育条件及び役畜使用の経済学については、フィリップ•ホワン氏の研究がある。ちなみにホワン氏は、富農式経営者が一頭の驢を購入する場合、その限界費用と限界収入の均衡点は20~50畝の経営土地であると算出している(ホワン前掲書、p.149参照)。 (18) 『慣調』,Ⅰ-222,【搭套】に、「二人の搭套では耕作の時に力がたりぬ」、Ⅱ-87,【播種】に、「男一人で何畝位播種できるか==一人ではできない」、とある。 (19) 普通の農家と考えられる村民杜祥(自作地11畝、小作地7~25畝) が、「土地を多く借り短工を雇って耕作するのは如何==よい、しかし私は金がないからできない」と、考えた(『慣調』,Ⅱ-162,【短工による小作地の耕作】)。 (20) 筆者も「耕作する時に、二頭の役畜で始めて仕事をできる。役畜一頭なら犂が大変重いのでひけない。牛でもひけない」と聞いた(94-沙井村,張林炳)。 (21) 華北の畑作農法に関しては、天野元之助「支那農業における牲畜の意義」(1)、(2) (『東亜経済研究』、25-2,25-3,1941年)、西山武一『アジア的農法と農業社会』(東京大学出版会、1969年) を始めとする日本人研究者らの研究成果がある。 (22) 戒能通孝『北支農村に於ける慣行概説』(東亜研究所、1944年)、61ページ。 (23) 搭套の内容と範囲に関して、『慣調』,Ⅰ-121,【共同の範囲】、【搭套の語意】(呉殿臣)、Ⅱ-16,【楊兄弟の搭套】、【搭套の性質】(楊沢ら沙井村四村民)というところに も、詳細な記述がある。 (24) フィリップ•ホワン前掲書、pp.145~146,p.160。 (25) 『沙井村調査応答録(1996年3月)』、張林如(71才)。これは筆者が1996年年初沙井村で聞き取った調査記録である。また、満鉄天津事務所調査課が河北省遵化県盧家寨村で撮った驢の写真を見れば、村民の話は過言ではないと感じる。満鉄•天津事務所調査課『遵化県盧家寨農村実態調査報告』(天津、1936年)を参照。 (26) この問題について、原洋之介『クリフォード•ギアツの経済学――アジア研究と経済理論の間で』(リブロポート、1985年)には、まとまった検討がある。特に、70ページ、126~129ページ、140ページを参照。 (27) ①元代北方の「鋤社」(王禎、『農書』鋤治篇) 秋成之後、豚蹄盂酒、逓相犒労。 ②陝西褒城県の「集工」(盧坤、『秦疆治略』褒城県) 農時、集工治田、歓飲竟日、腰鼓相聞。 ③清代直隷省宣化県の「慶場」(陳坦『康煕宣化県志』、巻一五、風俗志) 菽麦稲禾熟則作食饋親友。納稼畢、又醸酒設席待親友之来労者。曰慶場。 (28) これに関しては、清水盛光『中国郷村社会論』( 岩波書店、1951年) 第三篇に最も詳しい (责任编辑:admin) |