はじめに 「礼」という概念は、中国史上において極めて重要で、なおかつ複雑な様相を呈す。それは、儒家の唱えた「礼」思想が、王朝成立の核心として統治者によって代々肯定され続け、しかもそれが各王朝によって様相を異にするからであろう。だからこそ、中国史学の分野では、王朝の性格を見ようとする際に、「礼」は重要な課題となり、これまで多くの研究者に注目されてきた(1)。 西晋・武帝期(二六五~二九〇)に、礼学者が礼経と前朝説話及び公議に基づいて、それまでにはなかった五礼制度を備えた国家礼典『晋礼』を完成させたことは、歴史的に重要な意義を持った(2)。これ以降、魏晋南北朝を経て礼は「五礼制度」(吉礼・嘉礼・軍礼・賓礼・凶礼)という構造を形成し、それは唐代になって成熟の段階を迎えた。玄宗の開元二〇年(七三二)に完成された『大唐開元礼』(以下は『開元礼』と略す)はその結晶とされる(3)。礼制度が変革を経て成熟期に到達したこの長い歴史過程で、最も重要な点は、秦・前漢初期の所謂シャーマニズム(shamanism)的な特徴を残す国家祭祀体系が、儒家の王朝参入によって変容し、後漢・光武帝期(二五~五七)に至ると、儒家の礼制が主導する構造に改造されたことである(4)。隋唐では、この儒家的色彩がさらに深化していくが、同時に宗教的要素も組み込まれ、礼は多元化する傾向を示す(5)。 これまで、中国五礼制度に触れた先行研究は数多く公表されているが、その多くは吉礼・嘉礼・賓礼・凶礼に関わるもので、軍礼を対象とする研究は途についたばかりといってよい(6)。これまで軍礼に研究の目が向けられなかった一つの要因は、史料に直接関連する記事が他の四礼に比べて少ない点にあったであろう。しかしながら、軍事儀礼というものは、いかなる国家においてもその統治理念を色濃く反映するはずであり、それが看過されることは中国史学界にとって痛手だといわざるをえない。そうした状況下にあって、先行研究の中で特に注目すべきは丸橋充拓氏の論考であろう。氏はまず軍礼そのものを分類し、さらに講武・田狩儀式を取り上げて唐宋両時代における変化を提示し、軍礼の変容を唐宋変革論の視野で討論した。また氏は、唐代の出征儀礼と射礼の源流と変革をたどり、『開元礼』軍礼は北朝の影響を受けているとされた(7)。丸橋氏の研究によって、軍礼の思想はかなり明らかになった。しかしながら、それでもなお、唐から宋にかけての軍礼全体の構造変化を見ようとすると、いまだ考察すべき余地が残されていると思われる。 そこで筆者は、小論において、五礼制度が「成熟した」(梁満倉説)とされる唐宋期の軍礼を取り上げ、まず基礎的な作業として軍礼全体の構造を整理し、それぞれの特徴を分析した上で、それが唐から宋へと変容する過程を探ってみたい(8)。 第一節 軍礼と五礼制度 (一)軍礼と他の四礼との関係 まず、軍礼の概念を確認しておきたい。史料に現れる「軍礼」という用語には幾つかの解釈が可能であるが(9)、本稿で討論する対象は、「礼経に基づいて編纂された国家礼典の軍礼規定」と「軍礼の臨時儀注」である。両者の関係は、前者の国家礼典が第一義的に存在し、後者の儀注はその延長線上または補足的関係にある。両者とともに儀式実施の際に依拠する式次第規定であるが、前者はその基礎であり、国家礼典が適用できない、あるいは有効でない場合、または国家礼典の規定では不足の場合に儀注が作られる(10)。両者は同じような性格を持つのであり、本稿でいう「軍礼」はこの両方を指すこととする。 軍礼の五礼制度における位置づけを追求するには、当然ながら五礼(吉・賓・軍・嘉・凶)が相互にどのように関連するのかという問題と向き合わねばならない。一見すると、この五礼はそれぞれ独立しており、互いに無関係のように見えるかもしれないが、それは必ずしもそうではない。 管見の限りでは、「五礼」を記す最初の典籍は『尚書』である(11)。その舜典に、「舜修五礼」とあり、これについて、前漢・孔安国注は、「修吉・凶・賓・軍・嘉之礼」とする。また、『周礼』春官・大宗伯によれば、吉礼が「事邦国之鬼・神・祇」の礼、凶礼が「哀邦国之憂」の礼、賓礼が「親邦国」の礼、軍礼が「同邦国」の礼、嘉礼が「親萬民」の礼であるとする。ところで、これら五礼間の関係には次のような二つの問題が存在する。 第一は、ある特定の事例の際には五礼間で相互に影響しあう、または儀式が共同で施行される点であり、第二は、五礼の配列順序に関わる問題である。 第一の点は、例えば西嶋定生氏が述べられたように、漢代の皇帝即位においては二回にわたって儀式が行われ、最初は天子位に就き(凶礼的性格)、次に皇帝位に即く(嘉礼的性格)などのようである(12)。軍礼の場合を見ると、吉礼との関係が特に深い。『左伝』成公三年条に「国之大事、在祀与戎」とあるように、王朝にとっては鬼、神、祇に対する祭祀的儀礼(吉礼)と諸国を和同する軍礼は「大事」だとされ(13)、両者が深い関係を持っていたことを伝えている。『左伝』桓公二年条に、 冬、公至自唐、告於廟也。凡公行告於宗廟、反、行飲至、舎爵、策勲焉。禮也。 冬、公、唐より至り、廟に告するなり。凡そ公、告を宗廟に行い、反りて、飲至、舎爵、策勲を行う。禮なり。 とあり、また、『周礼』春官、大祝に、 大師、宜於社、造於祖、設軍社、類上帝。 大師は、社に宜し、祖に造し、軍社を設け、上帝に類す。 とあり、出征する前に鬼(造於祖)・神(類上帝)・祇(宜於社、設軍社)に対して祭祀を行う必要性を記す。なぜ軍礼にはこれらの吉礼的な祭祀を実施しなければならなかったのかというと、『白虎通義』巻四、三軍に挙げられる理由は特に重要だと思われる。すなわち、 王者將出、辭於禰、還格於祖禰者、言子辭面之禮、尊親之義也。……。出所以告天何、示不敢自專也、非出辭反面之道也。与宗廟異義。 王者將に出でんとし、禰に辭し、格を祖禰に還すは、言は子の辭面の禮、尊親の義なり。……。出所するに以て天に告ぐるは何ぞや。敢て自ら專せざるを示すなり、辭を反面の道に出だすに非ざるなり。宗廟と義を異にす。 とあり、宗廟で実施する告礼は出征に赴く「王者」が「子」として「尊親之義」を示す「辞面」(暇乞いをする)の礼、また、昊天上帝に告げるのは親征が「自専」の行為であることを避けるためとする。すなわち、これら古典に記される出征前の一連の祭祀は、上記『白虎通義』記事の前文に、 國必三軍何。所以戒非常、伐無道、尊宗廟、重社稷。 國、三軍を必とするは何ぞや。非常を戒め、無道を伐ち、宗廟を尊び、社稷を重んずる所以なり。 とあるように、出征が自分勝手な専横ではなく、自己の行為が正義に立脚していることを確認し強調するプロセスであり、軍礼とは単に「戦う」ことではなく、そこに吉礼を内包することが、軍礼を昇華させる重要な要素だったのである(14)。 一方、軍礼に吉礼が内包される関係は軍礼儀式内部に留まらず、さらにその外部までにも延伸していった実例も、史料に散見する。『開元礼』に記される献俘礼(軍礼)では、俘虜を処分して儀式は終了するが、実際にそうでない例もある。例えば、高宗・総章元年(六六八)に、李勣が高句麗を平定した後に、昭陵・太廟・含元殿で献俘礼を行い、さらに郊祀礼で亜献(第二番目に酌献をする担当者)を務めた。金子修一氏は、この時の郊廟親祭が高句麗平定に因るものであり、李勣が郊祀の亜献を務めたのも、高句麗平定の功労に因るものであったことは疑いないとされ、この告祭に戦役の司令官を務めた李勣が酌献を担当したことは献俘礼の延長線にあって、軍礼と吉礼との関連性が意識されていたことを指摘されている(15)。 第二の五礼における軍礼の順序の問題を見てみよう。礼と法は国を支える二本の柱で、五礼篇目の変化は、政府の国策と当時に生きる人々の世界観の一面でもあるから、五礼における順序はその礼の重要度を反映すると認識された(16)。表1は周から宋までの国家礼典(儀注)が示す五礼順の変遷である(『隋書』、両『唐書』また現存する各礼典によって作成。カッコ内は篇数(17))。それによれば、時代の進行につれて凶礼は周礼の第二位から末位まで移動され、唐代では南朝に形成された吉・賓・軍・嘉・凶という順を一貫して踏襲した(18)。ただし注意すべきは、北宋までは軍礼の前に置かれたのは常に賓礼であった。これについて、北宋・王召禹『周礼詳解』巻一七は、 先王以賓禮一天下、有不帥、則軍禮於是乎用矣。然則賓禮所以接外治、軍禮所以制外亂、而軍禮者所以待賓禮之變也、此軍禮所以次於賓禮。 先王、賓禮を以て天下を一とし、帥せざる有らば、則ち軍禮、是に於て用うるなり。然らば則ち賓禮は外治に接する所以にして、軍禮は外亂を制する所以なり。而して軍禮は賓を待する禮の變ずる所以なりて、此れ軍禮の賓禮に次ぐ所以なり。 と説明する。これによれば、賓礼と軍礼は外部世界に対応するものであり、前者は外交、後者は戦事の礼で、賓礼に「変」が生じた場合、それに軍礼が対応するので、軍礼は賓礼の後ろに置かれたというのである。ところで、宋代に入ると、軍礼の前に位置された賓礼は嘉礼に代えられた。これは、後述するように、嘉礼が北宋に入って重要視されたことと関係する。北宋末の『政和五礼新儀』に、賓礼はまた嘉礼を凌駕してもとの地位を取り戻したが、その背景に、当時北宋と遼・金などの外交が強調される傾向にあったことと関係すると思われるほか、唐『貞観礼』を肯定したことも重要な理由だったであろう(19)。それにもかかわらず、北宋では嘉礼が軍礼を凌駕してその五礼順が第二位まで挙げられたことは、北宋末期成立の『政和五礼新儀』にも大きく影響したはずである。 すなわち、五礼は相互に関係しあう性格をもつが、軍礼は特に吉礼との関係が深いこと、五礼の配列順は各王朝のもつ時代背景によって異なること、が確認されるのである。 (二)『開元礼』軍礼の成立 前述のように、唐代は南朝の五礼順を踏襲し、それを『貞観礼』から『開元礼』にかけて一貫させた。しかし、それはあくまでも表面上のことであり、その内部の儀式の運営手順には大きな変容が存在したと思われる。そこで、『開元礼』軍礼の成立に関する基礎的な問題に触れてみたい。 貞観二年(六二八)の『貞観礼』の制定をめぐって(20)、『唐会要』巻三七、五礼篇目は、 初、玄齢(房玄齢)與禮官建議、……。又皇太子入学及太常行山陵、天子大射、合朔、陳五兵於太社、農隙講武、……皆周隋所闕、凡増二十九条、餘并依古(21)。 初め、玄齢(房玄齢)、禮官と建議し、……。又、皇太子の入学、及び太常の山陵を行う、天子の大射、合朔、五兵を太社に陳す、農隙の講武、……皆、周・隋の闕くる所なり。凡そ二十九条を増し、餘は并びに古に依る。 と記される。これに従えば、房玄齢と礼官の建議によって、「皆周隋所闕」の計二九条を増補したことがわかる。そのうち軍礼と考えられる儀式には「天子大射」「合朔陳五兵於太社」「農隙講武」の三儀式がある。「皆周隋所闕」について、呉麗娯氏は「北周・隋になかった儀式や不備の儀式」と解釈しているが、「闕」には「誤る」の意もあるので、この記事に追加された三儀式は北周・隋に「なかった」または「不備」(一部を欠く)というほかに、「誤った」(北周の儀式内容に調整を加えた、あるいはそれを一部改変した)の意味も考慮すべきかもしれない(22)。 『貞観礼』に追加されたこの三儀式はその後に、高宗朝の『顕慶礼』を経由して『開元礼』に踏襲されたことから、建国初期に実施した軍礼制度が盛唐に与えた強い影響がうかがわれる。同時にその過程において、当時の礼制度をさらに完備させていく作業が必要となったはずである。そこで、これら三儀式の儀式名に基づき、それらが『開元礼』軍礼成立までに生じた変化をまとめてみると、次のとおりである(23)。 一、天子大射は、「皇帝が自ら大射に参加すること」(表2〈以下同じ〉⑭皇帝射於射宮)と「皇帝が百官による射礼を視察すること」(⑮皇帝観射於射宮)という二つの儀式に細分化されたこと。『貞観礼』天子大射の源流は周礼である。『礼記』射義に、「是故古者天子以射選諸侯、卿、大夫、士」、「是故古者天子之制、諸侯歳献、貢士於天子、天子試之於射宮」とあるように、天子大射は天子が人材を選ぶ儀式であり、天子本人も儀式に参加するが、実際には大射は臣下の諸侯・卿大夫・士が行った。史料によれば、初唐から実際に実施した大射のほとんどは「賜」という手段で臣下に射させるものであり、皇帝本人が参加するのは稀であったため(24)、儀式運営は周礼と同様であり、皇帝はその臣下の「徳」を検証し、互いに交流する機能が強かったと思われる(25)。『開元礼』に「皇帝観射於射宮」が追加されたことはまさにこの実情を順応してできたものではないかと考えられる。 二、講武儀式の実施は「農隙」(四季)とされたが(26)、『開元礼』では「仲冬」に限って実施するようになったこと。『貞観礼』は、講武の実施を「農隙」(農事の休閑期間)と規定しており、これは四季の農事を避けるためで『周礼』に依拠したものであった。高宗朝から『礼記』の地位が向上し、『開元礼』は『礼記』から強い影響を受けたので(27)、講武儀式の実施は『礼記』月令に依拠するようになった(28)。一方、高宗朝から辺境の安定に伴って、敵国の威嚇、国力の誇示を目的とする講武儀式を四季に実施する必要性が弱まったこともその重要な背景と考えられよう。 三、「合朔陳五兵於太社」は中央の儀式(⑳合朔伐鼓)と地方の儀式(㉑合朔諸州伐鼓)とに拡大したこと。合朔(朔日における日・月の相会)に伐鼓することは周礼に依拠したものであり、その性格が軍事と関係する意識は少なくとも周から既に存在したことがうかがえる(29)。合朔について、『後漢書』巻九三、律歴志三に「日月相推、日舒月速、當其同『所』、謂之合朔」とあり、日月の運行が合朔を形成する関係を示すが、これは天人感応で日を皇帝、月を皇后とする思想と対応した(30)。『開元礼』によれば、中央では、その日に皇帝は素服を着て正殿を避ける。百官は政務を中止し、府史以上は素服を着てその庁事の前に日に向かって日・月の運行が元に戻るまで立ち並ぶ。一方、地方では、その日に刺史・州官及び九品以上の者は素服を着て、中央の官員と同じように庁事の前に立ち並ぶという。このように日月の運行を皇帝・皇后と対応させることによって、皇帝をはじめ中央と地方政府が同調し、王朝の官僚機構の一体化が共感される。 ちなみに、北宋嘉祐六年(一〇六一)に日蝕が発生したときに、「当蝕不蝕」(日蝕が占いのとおりに発生しなかった)の祥瑞を百官が祝賀することに対して、同判尚書礼部の司馬光は『続資治通鑑長編』巻一九三、嘉祐六年六月壬子条で「臣以為、日之所照、周遍寰區、雲之所蔽、至為近狭、雖京師不見、四方必有見者」と上奏している。これによれば、日蝕の発生には地域性があり、京師で見えなくても地方で見えることもあり得るという。『開元礼』に見える、日蝕の対策を中央政府が地方に規定する内容(㉑合朔諸州伐鼓)は、これと同様の考慮によって制定されたのかもしれない。 すなわち、礼書の編纂とは、前例を引き写すだけでなく、各時代相や中心となる礼思想によって、同一王朝においても変容されるものなのである。『開元礼』軍礼は建国初期に編纂された『貞観礼』軍礼から大きく影響を受けたものの、『貞観礼』が完成された以降になっても軍礼儀式を調整する作業が絶えずに行われ、それがようやく玄宗朝に『開元礼』軍礼に結実したのであった(31)。特に、大射と合朔伐鼓がそれぞれ二つの儀式に細分化されたことは、玄宗朝になって礼制度の完備作業が一歩進んだことを示していると思われる。 それならば、唐代軍礼は具体的にどのような構造を持つ儀式群なのであろうか。 第二節 『開元礼』軍礼の性格 (一)『開元礼』軍礼の諸儀式 本節では、現存する『開元礼』軍礼の各儀式を挙げ、それぞれの性格を分析してみたい。 『開元礼』は玄宗・開元二〇年(七三二)に上進された礼典であり、唐代以前の成果を集大成して百五十巻の巨編に及んでおり、後世にも大きく影響を与えたものとして高く評価された(32)。そのうち、軍礼は巻八一から巻九〇にかけて計二三の儀式で構成されており、全貌を示せば表2のごとくである(祭祀の格は『開元礼』巻一・序例に依拠する)。丸橋充拓氏は、各儀式の内容によって軍礼を「有事の軍礼」(皇帝親征、将軍出征)と「平時の軍礼」とに類別された(33)。この分類法には一理あると思うので、表2にはそれを反映させている(34)。 さて、有事の軍礼は戦争系統の一連の儀式を構成する。皇帝親征の場合は、まず昊天上帝、社稷の諸神、皇帝の先祖に対する祭祀を実施する(表2〈以下同じ〉①皇帝親征類於上帝、②皇帝親征宜於太社、③皇帝親征造於太廟)。さらに出征時に国門(⑤親征及巡狩郊祀有司軷於国門)、途中の山川(⑥親征及巡狩告所過山川)、戦場(④皇帝親征禡於所征之地)においてもそれぞれに国門、山川の諸神、軒轅黄帝氏の祭祀を行う。作戦終了後に戦勝報告書が公布され(⑩平蕩寇賊宣露布)、皇帝は使者を遣わして軍将たちを慰労する(⑪遣使労軍将)。 一方、将軍が皇帝からの「制」を受けて出征する場合には、まず有司が社稷の諸神、皇帝の先祖と斉太公に対する祭祀を行う(⑦制遣大将出征有司宜於太社、⑧制遣大将出征有司告於太廟、⑨制遣大将出征有司告於斉太公廟)。作戦終了時に戦争報告書が公布され(⑩)、皇帝は使者を遣わして軍将を慰労する(⑪)。 「皇帝親征」と「将軍出征」の帰還時に露布と慰労が行われるが、これについて、『唐六典』巻五、尚書兵部、兵部郎中条に、 凡大将出征皆告廟、授斧鉞、辭齊太公廟、辭訖、不反宿於家。臨軍對寇、士卒不用命、並得專行其罰。既捷、及軍未散、皆會衆而書勞、與其費用、執俘、折馘之数、皆露布以聞、乃告太廟。元帥凱旋之日、天子遣使郊勞、有司先獻捷於太廟、又告齊太公廟。 凡そ大将出征すれば皆、廟に告し、斧鉞を授け、齊太公廟に辭し、辭訖れば、反りて家に宿さず。軍に臨みて寇に對し、士卒、命を用いざれば、并びに專ら其の罰を行うを得。既に捷するに、軍の未だ散ぜざるに及び、皆會衆して勞を書し、其の費用、執俘、折馘の数と與に、皆露布もて以て聞し、乃ち太廟に告ぐ。元帥の凱旋の日は、天子、使いを遣わして郊勞し、有司先に捷を太廟に獻じ、又、齊太公廟に告ぐ。 と規定されている。将軍は、戦勝後の軍団がまだ解散されていないうちに、兵士たちを集合させて彼らの功績を記し、また軍費と俘馘の数を露布で報告し、凱旋の日に天子は使者を派遣して都の郊外で軍隊を慰労するのである(35)。それから多重構造を持つ「献俘礼」が行われるが、その記載は『開元礼』では省略され、③「皇帝親征造於太廟」の文末に、 凱旋告日、陳俘馘於南門外、北面西上、軍實陳於後。其告奠之禮皆與告禮同。 凱旋の告日は、俘馘を南門の外に陳し、北面して西もて上とし、軍實して後に陳す。 其の告奠の禮は皆、告禮と同じ。 と記される。つまり、省略された理由は、帰還時の献俘礼は出発時に実施する「告奠之礼」と同じ式次第で行われるからである。ただし、注意すべきは、献俘礼は「皇帝親征」と「将軍出征」とで献俘する対象が異なっている点である。「皇帝親征」の場合には祖霊を祀る太廟で行い、一方「将軍出征」の場合には太社と太廟の両方で行うのである。 平時の軍礼については、丸橋氏は分類していないが、筆者はこれらの儀式は、「尚武精神を示す儀式」と「年中行事的な儀式」とに分けられると考える。「尚武精神を示す儀式」には、閲兵式(⑫皇帝講武)、巻狩り(⑬皇帝田狩)、射礼(⑭皇帝射於射宮、⑮皇帝観射於射宮)があり、「年中行事的な儀式」には馬に関わる一連の儀式(⑯祀馬祖、⑰享先牧、⑱祭馬社、⑲祭馬歩)がセットで四季に合わせて行われ、また中央と諸州政府の主導下で日食(⑳合朔伐鼓、㉑合朔諸州伐鼓)、疫病を消滅する儀式(㉒大儺、㉓諸州縣儺)もその都度に行われる。 「馬に関わる儀式」が軍礼の範疇に入れられた理由は、管見の限り史料では触れられていないが、おそらくは馬が軍事と深い関係にあることが最大の理由であろう(36)。その儀式の流れは吉礼と合致しており、おそらくそのために北宋徽宗朝の『政和五礼新儀』では馬に関わる儀式は吉礼の範疇に移動された。一方、「合朔伐鼓」と「大儺」儀式に、それぞれ五兵と諸衛が参加しており、さらにその目的が日食と疫病の克服の戦いという意識から、軍礼に納められたと考えられる。ちなみに、地方で実施する両儀式には「五兵」と「諸衛」が参加せず、庶民の参与度が高いから、民俗的な雰囲気が濃いことも留意すべきであろう。 以上のごとく、唐代『開元礼』軍礼の各儀式は、「皇帝親征」「将軍出征」「尚武精神を示す儀式」「年中行事的な儀式」の四系統に分けてとらえることができよう。これらの儀式はそれぞれに単独で成立するが、互いに関連し、時に連続して実施するものもある(37)。 ところで、『開元礼』軍礼の分析で、一つ看過すべきでない点がある。「皇帝親征」の場合に、都から出発する際に、国門と山川で⑤「親征及巡狩郊祀有司軷於国門」、⑥「親征及巡狩告所過山川」の儀式を実施し、その儀式名は「親征及巡狩郊祀」および「親征及巡狩」と題されている。これによれば、両儀式は親征のほか、「巡狩」と「郊祀」の場合にも実施されることがわかる。郊祀は都の付近で実施するので、山川に対する祭祀は規定されていないが、「巡狩」は天子が出御して地方を視察する性格をあわせもつので(38)、『開元礼』では「巡狩」儀式は吉礼の祭祀に記され、巻五六~六一で圜丘・宗廟・社稷での告礼(有司摂事も含まれる)を規定する。「皇帝巡狩」儀式は巻六二に記され、その冒頭に、 將巡狩、所司承制……。駕將發、告圜丘、宗廟、社稷皆如別儀。皇帝出宮、備大駕鹵簿皆如常儀。軷於國門、祭所過山川如親征之禮。 將に巡狩とすれば、所司、制を承け……。駕將に發せんとすれば、圜丘・宗廟・社稷に告げること、皆、別儀の如し。皇帝、宮を出づれば、大駕・鹵簿を備うること、皆、常儀の如し。國門に軷し、過ぐる所の山川を祭ること、親征の禮の如し。 とある。巡狩儀式では、皇帝の大駕が出発する前に圜丘・宗廟・社稷を祀り、出発後は国門と途中に経過する山川の祭祀を規定しており、軍礼の親征儀式とは基本的に同じ式次第で実施したことになる(39)。そもそも「巡狩」儀式は複雑な機能を持っており、その中に、「軍事的目的」と「地方との応酬」があり、それによって唐代以前の王朝では吉礼のほか、軍礼と嘉礼とも見なされたことが既に先学に指摘されている(40)。『開元礼』「巡狩」儀式の式次第を見れば、都で行われる圜丘・宗廟・社稷の三儀式では細かい点(皇帝の着装、乗用物など)が親征と異なり、吉礼の性格を呈しているが、国門・山川に対する儀式では「如親征之礼」とあるように、まったく一致している。つまり、「巡狩」儀式では国門と山川での祭祀を省略して軍礼でその詳細を記述するのである。その理由の一つは、『開元礼』では重複した内容を省略するのが慣例でありながら、巡狩は『開元礼』では吉礼と認定されているが、同時に軍礼的な性格の一面をも有しているためと考えられる。 (二)『開元礼』軍礼儀式の特徴 前項では、軍礼を戦時儀礼と平時儀礼とに分類する丸橋氏の説に主として依拠したが、ここでは別の視点から軍礼儀式群を見てみたい。それによって、軍礼の有するもう一つの側面を読み取ることができると思われるからである。 筆者は、『開元礼』軍礼を、その内容から「対神儀礼」と「対人儀礼」、およびその両者を総合した所謂「総合儀式」に分類できると考える。その分類とは、以下のとおりである(数字は表2参照)。 対神儀礼――①、②、③、④、⑤、⑥、⑦、⑧、⑨、⑯、⑰、⑱、⑲、⑳、㉑、㉒、㉓、「③、⑦、⑧」(献俘礼)。 対人儀礼――⑩、⑪、⑫、⑭、⑮。 総合儀礼――⑬。 対神儀礼のうち、①~⑨、⑯~⑲は神的存在を祭祀する儀式である。また、⑳~㉓の四儀式は当時の人知では解釈できない現象と闘争する儀式である。一方、対人儀礼は戦争終了後の露布の宣布と将軍たちに対する慰労と閲兵の講武儀式からなる。総合儀礼は田狩儀式のみである。すなわち、『開元礼』軍礼では神的存在が前面に打ち出され、それらが登場する儀式が主流を占めていると言えるのである。 秦漢以来の王朝は、原初的祭祀を儒家体系の道へと導き、天命思想を内包する儒教を思想的背景として五礼制度に転換させた。このことは具体的に皇帝および官僚層が執り行う儒家の礼制に基づいた祭祀によって示されており、このような神が主導する天命観に基づく思想は『開元礼』軍礼にも色濃く反映され、一連の対神儀礼を形成したことがうかがえる。 唐王朝は、儒家の天命観に基づいて、諸神を以下のようにランク付けした。『開元礼』巻一、序例上に、 凡國有大祀・中祀・小祀。昊天上帝・五方上帝・皇地祇・神州・宗廟、皆為大祀、日月・星辰・社稷・先代帝王・嶽・鎮・海・瀆・帝社・先蚕・孔宣父・齊太公・諸太子廟、竝為中祀、司中・司命・風師・雨師・靈星・山林・川澤・五龍祀等、竝為小祀、州県社稷・釋奠及諸神祀、竝同小祀。 凡そ國に大祀・中祀・小祀有り。昊天上帝・五方上帝・皇地祇・神州・宗廟は、皆大祀と為し、日月・星辰・社稷・先代帝王・嶽・鎮・海・瀆・帝社・先蚕・孔宣父・齊太公・諸太子廟は、竝びに中祀と為し、司中・司命・風師・雨師・靈星・山林・川澤・五龍祀等は、竝びに小祀と為し、州県の社稷・釋奠及び諸神祀は、竝びに小祀に同じ。 とあり、唐代に定期的に実施される所謂正祭を大・中・小という三段階と区別している。軍礼で実施される臨時の告祭とは異なる点はあるものの、祭祀対象の格は五礼制度の中では共通されるはずであるから、軍礼の祭祀ランクは基本的にこれに準ずるものと思われる。これに大過ないとすれば、祀られる対象の区分は、次のとおりである。 大祀……昊天上帝、宗廟。 中祀……社稷、嶽・鎮・海・瀆、斉太公廟(太公望呂尚)。 小祀……山林、川澤。 このうち「昊天上帝」「宗廟」「社稷」は、『通典』巻四三、郊天下、天宝五年詔に「尊莫大於天地、礼莫崇於祖宗」とあるように、この三儀式(郊祀・宜社・廟享)は一般に古来中国では数ある祭祀の中でも最も重要視されてきた。嶽・鎮・海・瀆はそれぞれ五嶽、四鎮・四海・四瀆の略称で、国の四方にある重要な山川や海である(41)。斉太公廟は太公望呂尚を祭る場所であるが(42)、それが初めて両京と地方諸州に設置されたのは玄宗・開元一九年(七三一)の詔によってである。武廟として毎年の二月・八月の上戊日(孔廟を祭祀するのは上丁日なので、その翌日に太公廟を祭祀する)に祀ることを命じた。さらに、天宝六年(七四七)に、玄宗は詔を下して、武挙の参加者が上京する前にまず太公廟に謁見するようにし、軍将も出征する前に斉太公廟に告げるようにした。また、山林・川澤は地方に散布する名山と大川である(43)。以上のうち、斉太公廟は唐代に太公望を神格化して作られたもので、ほかの神はすべて周礼に由来したものであった。これらの諸神が平時にも核心的な儀礼として祭られ、唐王朝では精神的な柱として王朝の正当性を支えており、そして戦時にも活用されて軍礼に登場するのである。 (三)「皇帝親征造於太廟」儀式の構造――対神儀礼の一例―― それならば、『開元礼』軍礼の対神儀礼は具体的にどのように進行されるのであろうか。一例として、巻八三、「皇帝親征造於太廟」を取り上げてみよう(筆者が『開元礼』に基づいて作成した「造於太廟儀式復元図」参照)。 まず式次第をまとめれば、以下のとおりである。 (1)卜日、斎戒、(2)陳設、(3)省牲器、(4)鑾駕出宮。 (5)晨祼 ①酒、尊、九室の位牌などの準備 ②皇帝は到着すると、大次で祝版に署名。会場に入ると皇帝は罍洗で手と瓚を洗う。皇帝は鎮圭を受け、版位に就く。 ③皇帝は阼階から上がり、献祖の神座前に鬱酒を床にそそぎ(晨祼)、またほかの室にも次々に晨祼して版位に戻る。 (6)饋食 ①饌食、俎の陳列。 ②皇帝は罍洗で手と瓚を洗う。 ③皇帝は阼階から上がり、献祖の尊で醴齊を汲み、献祖神座に酌献して退室。太祝は祝文(親征の意を告げる)を読み上げる。皇帝はほかの室にも酌献して東序で福酒を受け、版位に戻る。 ④軍将は皇考の睿宗大聖真皇帝室の前で福酒、胙肉を受け、位に戻る。 ⑤百官も胙肉を受ける。儀式終了して全員退場。祝版を燃やす。 本儀式は軍礼ではあるが、式の流れは吉礼の太廟での儀式と同じで、「晨祼」と「饋食」がその中心的内容を占めている。ただし、細部においては吉礼と異なり、その大きな相違点は、三献が一献になること、祝文の内容が親征の意を告げること、軍将が登場することである。儀式では、皇帝は鬱酒を各室の床にかけ、また酌献を担当する。これらは、皇帝が儀式の主宰者であることを示している。なお、福酒は注意すべきであり(44)、『旧唐書』巻四三、職官志二、侍中条に、「凡大祭祀、……洗爵、則酌罍水以奉。及賛酌泛斉、進福酒以成其礼焉」とある。宋代の例ではあるが、『続資治通鑑長編』巻七〇、真宗・大中祥符元年(一〇〇八)九月条に、「礼儀使言、『……皇帝所飲福酒、蓋上霊降祚、以交神明之福』」 と見える。つまり、福酒を飲むということは、礼が完成された証しと認識されたのである。儀式の流れを見れば、福酒は酌献と祝文の読み上げの後に行っており、これは祖霊が親征を肯定して支援する意の表現であろうと思われる。このように、対神儀礼においては、皇帝の親征が諸神の加護を受けていることを来場者全員に伝達し、その統治の正統性を強調することに第一義が置かれるのである。 総合儀礼に目を移せば、表2の⑫と⑬はしばしばまとめて行われるが、⑬の「皇帝田狩」には、成果としての獲物を皇帝の遠祖や社稷および参加者と共有する内容が見える。つまり田猟で獲った野獣を宗廟と社稷に捧げることが規定されている。『開元礼』巻八四、皇帝田狩では、獲物の分配を以下のように簡略に説明している。 大獸公之、小獸私之。其上者以供宗廟、次者以供賓客、下者以充庖厨。乃命有司饁獸於四郊、以獸告至於廟社。 大獸は之を公とし、小獸は之を私とす。其の上なる者は以て宗廟に供し、次なる者は以て賓客に供し、下なる者は以て庖厨に充つ。乃ち有司に命じて獸を四郊に饁し、獸を以て告して廟社に至る。 すなわち、「皇帝田狩」の獲物は、品質によって宗廟・賓客・皇帝個人用に分けて配分されたのである。また、有司が皇帝の勅を受けて四郊の神を祭る際にも、獲得した獲物を太廟の先祖、太社の諸神に供えた。このように、神的存在は対神儀礼だけではなく、対人儀礼の中心である「田狩」にも確認できる(45)。 『開元礼』軍礼は諸神と人間が共存する儀式群であって、その多くの儀式は祭祀を目的とするもので、吉礼の祭祀儀式と重複する。この点は、他の礼に比べて軍礼のもつ最も大きな性格上の特徴と見なければならない。春秋期の「國之大事、在祀与戎」という理念は、唐代軍礼にも色濃く反映されているのである。 以上はごく一例であるが、『開元礼』軍礼の神的存在に対する祭祀のあり様が見て取れよう。こうした様相を見ると、軍礼を有事の軍礼と平時の軍礼とに分類する丸橋氏の見解とは別の視座から、軍礼を対神儀礼と対人儀礼とに分類する見方があり得るであろう。しかも、『開元礼』の軍礼は、多くの部分が対神儀礼によって構成されている。そして、その傾向は、前節で見たように、先秦・漢代以来の礼思想や礼構造をいまだ色濃く継承して成り立っているのである。 それでは、このような傾向は宋代の軍礼ではどうであろうか。 第三節 宋代軍礼の構造と性格 (一)『太常因革礼』『政和五礼新儀』の軍礼 『宋史』巻九八、礼一、吉礼に、「五代之衰乱甚矣、其礼文儀注往往多草創、不能備一代之典」とあるように、五代期には「一代之典」は備えられなかった。したがって、北宋太祖期の編纂とされる礼典『開宝通礼』は、基本的に『開元礼』に依拠しつつ(46)、細部では唐後半期から五代の礼制の影響を受けていたと思われる(47)。ただし、その『開宝通礼』の内容は伝わっていない。 現存する北宋の国家礼典は、『太常因革礼』と『政和五礼新儀』(以下『因革礼』、『新儀』と略す)である。『因革礼』は仁宗・嘉祐年間に完成した百巻に及ぶ礼典であり、その軍礼は本文が散逸し、目録のみしか残存していないが、その篇目のみを整理すれば、表3のごとくである(48)。 『因革礼』軍礼は巻六一から六三を占め、この割合は百巻の礼典から見れば、『開元礼』軍礼と比較して大幅に縮小したことがわかる。その儀式名を見てみると、有事と平時とに分類すれば、有事の軍礼は、皇帝が親征する場合の一連の祭告(皇帝親征祭告)、凱旋したときに実施する祭告(凱旋祭告、太社と太廟か)、皇帝が御した楼に露布を捧げて献俘する儀式(献俘馘御楼宣露布上、献俘馘御楼宣露布下)となり、平時の軍礼は閲兵式(皇帝講武)、大射礼(皇帝射於射宮)と馬に関わる定期的な一連の祭祀(諸馬祭)となる。これによれば、『因革礼』は『開元礼』から以下のように変容したことが指摘できる。 一、『開元礼』に記される煩雑な軍礼が簡略化されたこと。その簡略化の方法は、皇帝が親征する場合の一連の祭告を一つに統一したことであり、さらには『開元礼』軍礼儀式の一部を廃止したことである。その中で最も目立つのは、将軍出征の諸儀式が消失したことであり、そのほかに「皇帝田狩」「皇帝観射於射宮」「合朔伐鼓」「合朔諸州伐鼓」「大儺」「諸州縣儺」も礼典から姿を消した。 二、戦争終了段階の儀式を再編成し、拡大させたこと。『開元礼』では戦争の準備段階に一連の祭告があり、軍礼の中で非常に重要な地位を占めるが、『因革礼』ではそれらが二つの段階にまとめられている。すなわち、戦勝するとまず祭告を実施し(凱旋祭告)、それから皇帝が御する楼の前で露布を告げ、献俘する(献俘馘御楼宣露布)。後者は上・下に分かれていることから、大きな構造を持つ儀式群であったことがうかがえる。ここに至って、献俘礼が堂々と軍礼の舞台に登場したのである(49)。 一方、時代が進んで徽宗・政和年間になると、全二二〇巻の巨篇に及ぶ『新儀』が完成された。その軍礼篇目を示せば、表4のごとくである。『因革礼』より約六〇年後の編纂であるが、軍礼には大きな変化が認められる。有事の軍礼は、皇帝が楼に上り蕃王の降附を受ける儀式(皇帝御楼受蕃王降儀)と、将軍に命じて出征させる儀式(命将出征儀上、命将出征儀下)とが見える。後者は「受旌旗、引見、造廟、宜社、告武成王廟、禡祭、師凱奏凱、御樓献俘宣露布」という一連の儀式群で構成される。また、紫宸殿で勝利の情報を祝賀する儀式(紫宸殿賀勝捷儀)も見える。平時の軍礼は、軍事訓練としての田狩(皇帝田猟儀上、皇帝田猟儀下)、諸王・大臣を册命する儀式(册命諸王大臣儀)、疫病を追い払う儺儀(大儺儀、州縣儺儀)、地方の貢献の儀式(諸州歳貢儀)、日食の対策の儀式(命朔伐鼓儀)となる。『因革礼』からさらに変化した点を要約すれば、以下のようになるであろう。 一、皇帝の親征が消え、将軍による出征の一連の儀式が有事の軍礼を独占すること。 二、戦争終了段階の軍礼は『因革礼』より明らかに規模を拡大させたこと。それは、皇帝が楼に出御して蕃王の投降を受ける儀式、紫宸殿で勝利を祝賀する儀式、献俘儀式(命将出征儀下)という三段階によって強調されている。 三、尚武精神の儀式の比重が下がり、講武儀式が廃止された一方で田猟(田狩)が復活し、皇帝に対する臣従を強く象徴する「冊命諸王大臣儀」と「諸州歳貢儀」の両儀式が軍礼の舞台に登場したこと。 四、田猟儀式では、その準備段階が充実され、宗廟・社稷・黄帝軒轅氏に対する祭祀を取り入れたうえ、さらに射礼の要素を吸収して大規模な儀式に拡大されたこと。 五、『因革礼』になかった大儺儀(州縣儺儀)は復活したが、馬の祭祀と合朔伐鼓は軍礼から消えたこと。 以上は、宋礼を代表する国家礼典の『因革礼』と『新儀』に収められる軍礼儀式の変容を整理したものである。両礼典が唐の『開元礼』を踏襲したということ自体は、史書に採録される礼官の上疏から確認できる。ただし、その継承程度には差異が認められる。『因革礼』には、唐礼から離脱しはじめ、独自の特徴を出しつつあることが確かめられるものの、軍礼はあたかも『開元礼』の縮小版のようであり、大幅な変更点はさほど多くはない。ところが、北宋末の『新儀』になると、いくつかの新儀式が軍礼に編入されたほか、『開元礼』軍礼の元来の儀式内容にも大きな差異が生じている。『新儀』の軍礼は、それまでの儀式の増減と再編成とによって、完全に唐礼を脱却した独自な風格を提示していると見受けられるのである。 (二)宋代軍礼儀式の変容 前述のとおり、『因革礼』は唐代後半より行われた「皇帝が楼上で献俘礼を受ける」儀式を「露布の宣布」内容と融合し、また「太社・太廟に対する祭告」(凱旋祭告)を一つの儀式としてまとめた。それらが宋初の『開宝通礼』を踏襲したのか、あるいは『因革礼』軍礼が『開宝通礼』に調整を加えたものなのかまでは不明である。 一方、それ以降さらに半世紀を経た徽宗・政和年間(一一一一〜一八)に「一代之典」として完成された『新儀』は、『開元礼』の不備を認識したうえで編纂されたので(50)、したがって『開元礼』とは様相を大きく異にしている(51)。軍礼における大きな変更は、前述のとおり『開元礼』と比較して儀式の増減である。追加された儀式は「皇帝御楼受蕃王降儀」「冊命諸王大臣儀」「紫宸殿賀勝捷儀」「諸州歳貢儀」であり、削除されたのは「皇帝親征の諸儀式」「大射儀式」「講武儀式」「馬に関わる祭祀」である。管見の限りでは、史料にこれらの増減理由は直接的に説明する記事が見えないが、追加された儀式のうち「皇帝御楼受蕃王降儀」と「紫宸殿賀勝捷儀」とは献俘礼の台頭にともなう変更と見てよいであろう。 一方、削除された儀式とその理由については、次のように考えられる。 皇帝親征の諸儀式……北宋後半から事実上親征は行われていないため。 大射儀式……北宋初期から嘉礼的性格の宴射に代えられ、太祖・太宗朝に大射が提起さ れたことはあるが実行はされず、朝廷の舞台から後退したため。 講武儀式……丸橋氏が「講武礼の軍事教練の共同動作が空洞化し、ようやく存続の危機 を迎えた」と指摘されたように(52)、本儀式の核心ともいうべき軍事教練の性格が喪失 したため。 馬に関わる祭祀……吉礼祭祀類の儀式と認識され(53)、『新儀』では吉礼に移動された。 すなわち、以上の儀式の増減は、当時の実際の状況や王朝の儀礼認識の変化によるものであろう(54)。ところが、「冊命諸王大臣儀」と「諸州歳貢儀」とが軍礼に納められた点は問題である。なぜなら前者は、諸王・大臣を册命する儀式であり、後者は地方の州が毎歳行う貢献・進奉の儀式であって、一見するとそこには軍事関係の要素や兵士の参加も見られないからである。それならば、この両儀式はなぜ軍礼の範疇に入れられたのであろうか。 そもそも「冊命諸王大臣儀」は『開元礼』に既に存在する。皇后・皇太子・諸臣・二品以上の内命婦の冊命儀式とともに嘉礼に置かれ、『因革礼』でも同様であるので、軍礼に移されたのは徽宗朝『新儀』からである。『新儀』の式次第では冊命される対象(諸王・大臣)を「受冊者」と記しているが、『宋史』の記載に「受冊者」を見れば、それらは親王・宰臣・使相・枢密使・西京留守・節度使であり(55)、いずれも王朝官僚機構のトップクラスに立つ者たちである。実際の儀式会場は大慶殿であり、大慶殿は大朝会・冊尊号・饗明堂を実施する場所で、数万人もの収容人数を誇るかなり広大な空間を持つ正殿であった(56)。さらに『宋史』の記載を見れば、『新儀』に記される準備段階の式次第よりも厳かな儀式で行われている様子がうかがえる。『新儀』の「冊命諸王大臣儀」は「陳設」「臨軒冊命」の二部によって構成され、「臨軒」とは皇帝が正殿に御せずに、前殿に御することをいう。儀式の格が高いので、「竊以臨軒冊命之礼、国朝以来、雖元功徳之臣、未嘗敢有当之者」とされるように(57)、王朝に大きな功労を立てた者でも上表して儀式自体を辞謝し、実際には実施されることはなかったとされる。 皇帝は「冊命諸王大臣儀」で王朝官僚機構のトップクラスに立つ者たちを任命し、その最高指導者の権威を顕示するが、一方、『宋会要輯稿』礼五九、冊命王親大臣に、 折禦卿為永安軍節度使、加檢校太保、食邑五百戸。以同討李繼捧之功也。 折禦卿を永安軍節度使と為し、檢校太保を加え、食邑は五百戸とす。同に李繼捧を討つの功を以てなり。 とあるように、太宗・淳化五年五月六日に、李継棒討伐で功を立てた府州観察使の折御卿が永安節度使に任命され、軍功も册命の要因として挙げられる(58)。こうした状況を斟酌すれば、冊命を軍礼に入れたのは、軍将の軍功を主たる対象としたからであり、同時にそれによって軍将に軍功を奨励する目的があったと考えられる。 また、『涑水記聞』巻一一に、 (慶歴)四年五月、(李)元昊自號夏國主、始遣使稱臣。八月、朝廷聴元昊稱夏國主、歳賜絹茶銀彩合二十五万五千、元昊乃獻誓表。十月、賜詔答之。十二月、冊命元昊為夏國主、更名曩霄。 (慶歴)四年五月、(李)元昊、自ら夏國主と號し、始めて使いを遣わして臣を稱す。八月、朝廷、元昊の夏國主を稱するを聴し、絹茶銀彩合二十五万五千を歳賜し、元昊は乃ち誓表を獻ず。十月、詔を賜わりて之に答う。十二月、元昊を冊命して夏國主と為し、名を曩霄と更む。 とある。宋は仁宗朝に西夏とほぼ三年にわたって交戦し、最終的に「慶歴和議」を結んだ。その冊文に「約称臣、奉正朔」とあるように(59)、藩国の王を冊命する形でその国の帰付関係が結ばれるのであり、宋から西夏に定期的な「歳賜」を附加条件とするとはいっても、それによって北宋皇帝の威権は維持されるのである。 すなわち、「冊命諸王大臣儀」が軍礼のカテゴリーに入れられたのは、国内においては功労、特に軍功と関連し、「臨軒冊命」という盛大な国家礼典の形で軍将を奨励する目的があったためであり、国外との関係においては、冊命は戦争の結果として外国君主を対象にして形成されたからである。こうした状況から、同儀式は軍事関係の儀礼と認識されたと思われる。 一方、「諸州歳貢儀」はどうであろうか。地方からの特産品の貢献はいうまでもなく宋以前から既に行われていたが、それが国家礼典に登場するのは『新儀』からである。『新儀』の儀式次第を要約すれば、 貢物を匭に納め、進表とともに闕に向けて設けた香案の上に置く。→ 長吏は僚佐を率いて席位に立つ。→ 長吏は笏を持って香を捧げ、皆拝礼。→ 執事者は長吏に匭と表を渡し、儀式終了。 のごとくである。すなわち、地方長官が部下を率いて皇帝に対する忠誠心を示す内容となっている。これは、辺境勢力が方物を歳貢して宋王朝に臣従を示す手段でもあった。『宋朝事実』巻一六、兵刑、平広南蛮賊儂智高条に、 皇祐元年、寇邕州。明年、廣西轉運使蕭固遣邕州指揮使元贇往侯之。……贇頗為陳大略、説(儂)智高内属。由是遣贇還、并奉表、願歳貢方物、許之。 皇祐元年、邕州を寇す。明年、廣西轉運使の蕭固、邕州指揮使の元贇を遣わし、往きて之を侯わしむ。……贇、頗る為に大略を陳べ、(儂)智高に内属を説く。是に由りて、贇を遣わして還らしめ、并せて表を奉じ、方物を歳貢するを願えば、之を許す。 とある。仁宗・皇祐二年(一〇五〇)に、広源州の蛮の儂智高が邕州指揮使の元贇に説得されて宋に帰朝したとき、上表とともに方物を歳貢することを求めている。すなわち、外部の勢力が王朝に帰付した者も、地方長官と同様に皇帝に対する忠誠心をこの儀式で示すのであり、それは唐後半期から盛行する国内藩鎮および諸外国からの「進奉」の場合も同様であろう。 「冊命諸王大臣儀」と「諸州歳貢儀」とは、唐の朝廷で既に一般的に行われていた制度であるが、その執行が儀礼に取り入れられ、しかも軍礼に分類されたのは奇異に映るかもしれない。しかしながら、以上のように見ると、この両儀式は完全に軍事と無関係とはいえない。戦争・冊命・忠誠・貢献(進奉)は、いずれも宋代では軍事の一環ととらえられたのであり、そこで『新儀』はそれらの儀式を軍礼に編入したと解されよう。 (三)対神儀礼から対人儀礼へ ところで、このようにして出来上がった『新儀』の軍礼儀式群を、あらためて表4で見てみれば、一見してそこに諸神をめぐる儀式が完全に衰退している様子が看取されるであろう。つまり、『開元礼』軍礼から『新儀』軍礼に至る変容とは、対神儀礼重視の傾向から対人儀礼重視の傾向への変容なのであり、これが両者の最も大きな礼思想の差異といわねばならないのである。 皇帝の威権が、いわば世俗的な「冊命」や「歳貢」によって顕示されることは、これらに孤立的な現象ではなく、軍礼全体が世俗化していく傾向と関係が深いと思われる。唐代後半から皇帝祭祀に世俗化という性格が現れ始めたことは、既に先学によって指摘されている(60)。ただし、そうはいっても、それが軍礼に反映され、世俗的な儀式が軍礼の重要な地位を占める過程には、そこに大きな思想的変化の存在を考えざるを得ない。 皇帝が神仙の世界においてどのように位置づけられるべきなのかという問題をめぐっては、唐代で既に人神関係を調整する作業が始まっていた(61)。諸神を国家礼制の管理の下に置き、皇帝が諸神より高い地位を確保することを強調したこの作業は、唐代後半になっても続けられた(62)。北宋になると、神宗・元豊六年(一〇八三)に諸神の加封に際して、太常寺博士の王古は諸神の身分に応じて爵位や封号を加えるべきだという建議を上し、神宗に採納された。その最後に「如此、則錫命馭神、恩礼有序」とあり(63)、宋王朝が新たな神霊の秩序を作り上げようとしていることをうかがわせる。また、宋代では太廟のほかに前代皇帝の神御を景霊宮に供養し、全国多くの寺院にその神御殿を建てた。このような、本来は宮廷で行われる祭祀が地方にまで「一般化」する経緯は、北宋の神霊システムのあり方を前代までには見られなかった様相に変容させたのであり、そこには非常に重要な意味があったはずである(64)。 唐代後半期からの神霊世界の秩序に対する意識改革は、世俗的な面での改革にも反映されたと思われる。前述のとおり、唐代の軍礼儀式の中心は祭祀的儀式であり、朝廷で日常に祀られている諸神のほとんどは軍礼にも取り入れられ、それらの諸神は平時の場合だけではなく、有事の場合でも王朝を加護していた。そして、それらはそもそも吉礼において祀られるものなのであり、それを中心に据える『開元礼』の軍礼とは、いわば「吉礼的軍礼」ともいうべきものなのである。ところが、安史の乱の衝撃によって中央政府の核心であるべき皇帝の威厳は下落し、地方にまで及ばなくなった。それにともなって、諸神の力によって統治力を強化する手段も、当然のことながら動揺せざるを得なかったであろう。とすれば、皇帝は自己の権力の強化に頼る以外に方法はなくなったはずである。そこで、皇帝権威を最も有効的に顕示できる献俘礼が重視されるようになった。献俘礼では、皇帝が楼上から俘虜に判決を下す。死刑にする場合は市に護送のうえ処刑させ、赦免する場合はその場で王朝の服に着替えさせる。このように、戦勝の結果としての献俘礼を利用して皇帝が臣下と民衆に生殺与奪の権を握ることを示し、視覚効果でその威厳を国民に伝達した。北宋ではこれがさらに発展し、『新儀』軍礼では献俘礼を核心とする膨大な儀式群を形成したのである(注6拙稿参照)。 それと反比例して、『新儀』では対神儀礼は軍将出征の祭祀は維持されたものの、王朝の祭祀対象として最も重要である昊天上帝は、軍礼から外されたのである。 『新儀』では皇帝親征の儀式は削除されたが、軍将出征の儀式は残されている。ただし、そこでは諸神の祭祀の前に「受旌節」と「引見」を行う手順とされている。「旌節」は軍権の象徴であり、それを皇帝より授与されることは軍権の一時譲渡を意味する(65)。そもそも、『唐六典』巻五、兵部郎中条に、 凡大將出征、皆告廟受斧鉞。辭齊太公廟、辭迄、不反宿於家。 凡そ大將出征するに、皆、廟に告して斧鉞を受く。齊太公廟に辭し、辭迄れば、反りて家に宿さず。 とあり、唐代では軍将出征の際に太廟で皇帝より軍権を象徴する斧鉞を受ける規定であった(66)。太廟において斧鉞を授受するということは、軍権が太廟と関連づけられ、祖霊から皇帝を経由して軍権が授与されることを意味する。しかし、『新儀』の軍将出征儀式では太廟での授受は廃止され、代わりに皇帝が宮殿で直接に軍権を授与するのであり、皇帝権力の拡大を示している。 また『新儀』の「引見」式次第では、「升殿近御前之左、大將奏事、稟方略」とあるように、軍将が戦地に赴く前に、皇帝に出征の状況と方略を報告し確認する。『隋書』巻八、礼儀志三には、 古者天子征伐、則宜於社、造於祖、類於上帝。還亦以牲遍告。梁天監初、陸璉議定軍 礼、遵其制。帝曰、「宜者請征討之宜、造者稟謀於廟、類者奉天時以明伐、并明不敢 自專。陳幣承命可也」。璉不能對。 古えは、天子征伐すれば、則ち社に宜し、祖に造し、上帝に類す。還らば亦た牲を以 て遍く告ぐ。梁の天監の初、陸璉、軍礼を議定し、其の制を遵す。帝曰く、「宜は征 討の宜を請い、造は謀を廟より稟け、類は天の時を奉じて以て伐を明らかにし、并び に敢て自ら專らせざるを明らかにす。幣を陳して命を承くれば、可なり」と。璉、對 うる能わず。 とあり、太社に「宜」礼、太廟に「造」礼を実施するのは「征討の宜を請う」「謀を廟より稟ける」ためである。『開元礼』の中でも、皇帝親征や将軍出征の前に、太社、太廟に出征の意を報告した(67)。しかし、『新儀』になってこれらの前にまず皇帝に報告しなければならないと規定しているようになったから、そこでは諸神よりも皇帝本人の権力が第一に強調され、皇帝親征でなくてもその意志が軍将によって貫徹できるものとされるのである。こうした側面にも、対神儀礼の衰退と、皇帝・君臣間における対人儀礼を重視する傾向が現れているといえよう。 『因革礼』で見られた有事の軍礼(特に献俘礼)における皇帝権威の強調傾向は、『新儀』においては平時の軍礼の舞台にも浸透していく。その結果が、前述の「冊命諸王大臣儀」と「諸州歳貢儀」との軍礼カテゴリーへの編入である。さらに、宋代の軍礼では宴会・賞賜などの君臣間の応酬と協和が重要視され、史書の記載を見るとそれらは盛んに行われている。これらの「人と人との関係を重視する」内容は、いわば「嘉礼的軍礼」と言ってよく(68)、それが唐代の「吉礼的軍礼」を凌駕し、宋代の軍礼では核心的な位置を占めている。事実、この変容の傾向は、唐代後半期以降の他の軍礼儀式にも見られる大きな現象なのである(69)。 唐・宋両代の史料残存量の差異によって単純に比較できない面もあるが、北宋になるとこうした傾向はさらに進展し、軍礼関連の史料には君臣が宴会や賞賜の場で交流する内容が圧倒的多数を占め、吉礼的軍礼は姿を消して嘉礼的軍礼が台頭する傾向を示している。その実例を、各儀式についてそれぞれ挙げてみよう。 〔献俘〕受降獻俘。太祖平蜀、孟昶降、詔有司約前代儀制為受降礼。……閣門使引昶等入、舞蹈拜謝、召昶升殿、閣門使引自東階升、宣撫使承旨安撫之。昶至御坐前、躬承問迄、還位、與官属舞蹈出。中書率百官稱賀、遂宴近臣及昶于大明殿。(『宋史』巻一二一、志第七四、礼二四) 受降獻俘。太祖、蜀を平らげ、孟昶降り、有司に詔して前代の儀制を約して受降礼を為さしむ。……閣門使、昶らを引きて入り、舞蹈し拜謝せしめ、昶を召して升殿せしめ、閣門使、引して東階より升り、宣撫使、旨を承けて之を安撫す。昶、御坐の前に至り、躬ら問を承け迄り、位に還り、官属と舞蹈して出づ。中書、百官を率いて賀を稱し、遂に近臣及び昶を大明殿に宴す。 〔田狩〕太祖建隆二年、始校獵於近郊。……帝親射走兔三、従官貢馬稱賀。其後多以秋冬或正月田于四郊、從官或賜窄袍暖靴、親王以下射中者賜以馬。(『宋史』巻一二一、志第七四、礼二四) 太祖の建隆二年、始めて近郊に校猟す。……帝、親ら走兔を射すること三、従官、馬を貢して賀を稱す。其の後、多くは秋冬或いは正月を以て四郊に田し、従官は或いは窄袍暖靴を賜わり、親王以下の射して中つれば、賜うに馬を以てす。 〔講武〕真宗詔有司擇地含輝門外之東武村為廣場、……乃召従臣宴、教坊奏楽。回御東華門、閲諸軍還營、鈞容奏樂於樓下、復召従臣坐、賜飲。明日、又賜近臣飲於中書、諸將校飲於營中、内職飲於軍器庫、諸班衛士飲於殿門外。(『宋史』巻一二一、志第七四、礼二四) 真宗、有司に詔して、地を含輝門の外の東武村に擇びて廣場を為させめ、……乃ち従臣を召して宴し、教坊に樂を奏せしむ。回りて東華門に御し、諸軍を閲して營に還り、鈞容して樂を樓下に奏せしめ、復た従臣を召して坐し、飲を賜う。明日、又、近臣に飲を中書に賜い、諸將校は營中に飲し、内職は軍器庫に飲し、諸班の衛士は殿門の外に飲す。 〔射礼〕(真宗咸平二年、九九九年)十二月十四日、幸殿前指揮使班院閱馬射、又召挽弓至百斤已上者射於禦前、引滿命中、帝甚悅。……安定郡王元撚、鎮安軍節度使李繼隆、(附)[駙]馬都尉石保士、勝州團練使德恭皆射中、賜襲衣、金帶、鞍馬、侍臣盡酔。(『宋会要輯稿』礼四五、宴享二、雜宴、習射宴) (真宗咸平二年、九九九年)十二月十四日、殿前の指揮使班院に幸して馬射を閱し、又、弓を挽くこと百斤已上に至る者を召して禦前に射らしめ、滿を引きて命中すれば、帝甚だ悦ぶ。……安定郡王の元撚、鎮安軍節度使李の繼隆、(附)[駙]馬都尉の石保士、勝州團練使の德恭、皆、射して中て、襲衣・金帶・鞍馬を賜わり、侍臣盡く酔う。 以上は一例に過ぎないが、軍礼における対神儀礼から対人儀礼に比重が移行する傾向とは、一面では吉礼的軍礼の減少および嘉礼的軍礼の増長と表裏一体化した現象と見るべきなのである。以前より中国史学界においては「唐宋変革」が夙に指摘され、その変革の一面に皇帝権の強化があげられていた。小論で取り上げた唐・宋の軍礼の変容は、その一側面における現れとも言えよう。すなわち、『開元礼』軍礼に見られるような神的存在を対象とする吉礼的儀式は、昊天や祖霊などが皇帝を権威付けているのであるが、同時に皇帝は臣下と同様にそれらに服従する立場であった。ところが、神的存在が姿を消した宋代の軍礼においては、臣下は皇帝にのみ服従するのであり、皇帝の徳をのみ顕彰する形をとる。皇帝権の強大化とは、こうした礼思想や礼構造と密接に関わった現象と見るべきではあるまいか。 おわりに 本稿は、唐・宋両王朝の重大な国家儀礼である軍礼の構造を分析し、両者を比較してそれぞれの特徴と変容を明らかにした。得られた知見をまとめれば、次のとおりである。 (1)中国古代の五礼制度は後世の王朝に受け継がれ、国家の正統性の支柱とされたが、その内容は各時代によって異なった。唐王朝の国家儀礼書は『貞観礼』『顕慶礼』『大唐開元礼』が編纂され、その内容もそれぞれ異なるが、五礼の配列順序は一貫して吉礼・賓礼・軍礼・嘉礼・凶礼の順を採用した。現存する『開元礼』の式次第を見ると、軍礼は吉礼の儀式を内包しており、軍礼は他の四礼のうちとりわけ吉礼と密接な関係にある。 (2)吉礼は昊天・祖霊・社稷等を祀る儀礼を中心とし、軍礼儀式の多くにそれらの祭祀が取り入れられているのは、それら諸神から軍事行動の正統性と加護を担保するためである。国の大事は「祭祀の礼」と「軍事の礼」にあるとするのは『左伝』以来の指針であり、それが唐にも受け継がれているのである。その意味で、『開元礼』はそうした古来の思想をいまだ色濃く残していると見なければならない。 (3)こうした視点から『開元礼』を見ると、軍礼の儀式群は「対神儀礼」と「対人儀礼」とに分類するとらえ方が可能である。小論では、対神儀礼の具体例として「皇帝親征造於太廟」儀式を取り上げたが、他の儀式もおおむね同様の式次第である。 (4)ところが、北宋の『太常因革礼』の軍礼篇目を見ると、いまだ『開元礼』の影響から完全には脱却していないが、北宋末の『政和五礼新儀』の軍礼では対神儀礼は全くといっていいほど姿を消している。そこでは献俘礼が重要視され、「冊命諸王大臣儀」と「諸州歳貢儀」さえもが軍礼に編入されている。それらは『周礼』春官の言葉を借りれば嘉礼的軍礼といえる。すなわち『開元礼』から『新儀』へと至る軍令の変容とは、吉礼的軍礼重視から嘉礼的軍礼重視への変容である。 (5)こうした唐後半期~北宋末の軍礼の変容は、安史の乱によって皇帝の威厳が失墜し、それと同時に神的存在の意義が失われた結果である。そのため、皇帝権威を最も有効的に顕示する儀式が重視されるようになった。事実、『新儀』軍礼の諸儀式のトップに立つのは神的存在ではなく、常に皇帝その人である。唐代の軍礼は、皇帝(または代理人)が上帝・太廟・社稷などを祀って皇帝権威の根拠を再確認したが、北宋の軍礼は皇帝自身を顕彰する形を採っている。 (6)以上の軍礼の変容は、唐後半期に前代の神権政治的儀礼から脱却し始め、それが宋代の皇帝権威を顕彰する儀式に変わっていく流れである。その意味で、唐代はむしろ儀礼の過渡期であり、むしろ軍礼そのものは北宋になってようやく成熟したといえる。従来、唐宋変革の指標の一つに皇帝権の強大化があげられてきたが、それはこうした国家儀礼のあり方を一つの背景として起こってきた現象ととらえるべきではなかろうか。 本稿は、唐宋の軍礼の構造に対して俯瞰的な理解を示したものである。その内実をより明らかにするには、各儀式を一つ一つ分析する作業が必要である。また、現実問題としては、実際に行われた軍礼儀式はしばしば国家礼典の枠を超えている。一例を挙げれば、遊戯的性格を持つ「打毬」儀式の問題があり、また地方においても軍礼的性格を有する儀式が独自に行われる場合すら認めされる。このような事例が国家礼典の軍礼とどのように関連するのかについても、視野に入れねばならない。いずれも今後の課題としたい。 注釈 (1)「礼」の研究はこれまでに膨大な蓄積があり、その範囲は礼学、礼制度、礼俗、礼儀など多方面にわたり、歴史研究に大きな貢献を果たしたが、紙数の都合で本稿に関わるもののみを以下にその都度紹介する。 (2)西晋の礼書編纂に関しては、甘懐真「制礼観念的探析」(黄俊傑主編『皇権、礼儀与経典詮釈:中国古代政治史研究』華東師範大学出版社、二〇〇八年)参照。 (3)梁満倉『魏晋南北朝五礼制度考論』(社会科学文献出版社、二〇〇九年)。 (4)西嶋定生「皇帝支配の成立」(岩波講座『世界歴史』第四巻古代四所収、一九七〇年)、また、甘懐真「西漢郊祀礼的成立」(前掲注2黄俊傑主編書所収)、Michael Puett:Determining the Postion of Heaven and Earth:Debates Over State Sacrifices in the Western Han Dynasty.in Confucian Spirituality,ed.Tu Wei-Ming and Mary Evelyn Tucker,New York:Crossroad Press,2003.鷲尾祐子「前漢郊祀制度研究序説—成帝時郊祀改革以前について」(立命館東洋史学会中国古代史論叢編集委員会編『中国古代史論叢』、二〇〇四年)。 (5)雷聞『郊廟之外:隋唐国家祭祀と宗教』(三聯出版社、二〇〇九年)。 (6)唐宋軍礼に関する研究は、①軍礼研究の通論としては、陳戍国『中国礼制史・隋唐五代巻』(湖南教育出版社、一九九五年)、同氏『中国礼制史・宋遼金夏巻』(湖南教育出版社、二〇一一年)。任爽『中国礼制史』(東北師範大学、一九九九年)、楊志剛『中国礼儀制度研究』(華東師範大学出版社、二〇〇一年)、王美華「唐宋礼制研究」(東北師範大学博士論文、二〇〇四年)、丸橋充拓「魏晋南北朝隋唐時代における「軍礼」確立過程の概観」(『社会文化論集』七、二〇一一年)などがある。②特定の儀式を取り上げた研究としては、特に講武が注目を集めており、李訓亮「唐代講武述論」(『西安文理学院学報・社會科学版』、二〇〇五年第五期)、金相范「唐代講武礼研究」(『宋史研究論叢』第七輯、二〇〇六年)、陳峰「北宋講武礼初探」(『清華大学学報・哲学社会科学版』五、二〇〇七年)、王瑜「中國古代講武礼的幾個問題─以唐代為中心」(『求索』四、二〇〇九年)がある。また、丸橋充拓「唐宋変革期の軍礼と秩序」(『東洋史研究』六四―三、二〇〇五年)は講武と田狩を対象にしてその変容を検討する。献俘礼には、妹尾達彦「唐代長安の盛り場(中)」(『史流』三〇、一九八九年)、拙稿「唐代軍礼における『献俘礼』の基本構造」(『史観』一六七、早稲田大学史学会編、二〇一二年)、同「唐宋における皇帝秩序の変容-献俘礼を手がかりにして」(『史滴』三四、二〇一二年)がある。射礼には、拙稿「射礼的性質及其変遷――以唐宋射礼為中心」(二〇一三年一一月に第三届清華青年史学論壇(於北京清華大学)で口頭発表をし、『第三届清華青年史学論壇論文集』に収録)がある。なお、後文の献俘礼、大射礼に関する内容は特に断りのない限りすべて上記拙稿参照。 (7)丸橋充拓「中国古代の戦争と出征儀礼―『礼記』王制と『大唐開元礼』のあいだ―」(『東洋史研究』七二―三、二〇一三年)、同「唐代射礼の源流」(宮宅潔研究代表、科研費研究成果報告書『中国古代軍事制度の総合的研究』京都大学人文科学研究所、二〇一三年)。 (8)本稿は二〇一一年一一月六日第一〇九回史学会大会東洋史部会における口頭発表「唐・宋『軍礼』の構造とその変容」を骨子とする。 (9)例えば、『資治通鑑』巻二二七、徳宗建中三年二月条に、「蔡雄與兵馬使宗頊等矯謂士卒曰、……雄又曰、汝曹不欲南行、任自歸北、何用喧悖、乖失軍礼」とあり、ここの「軍礼」は「軍容」に近い意味をする。 (10)劉安志「関於『開元礼』的性質及行用問題」(『中国史研究』三、二〇〇五年)参照。また、張文昌『制礼以教天下—唐宋礼書与国家社会』第二章(台湾大学出版中心、二〇一二年五月)によれば、儀注はしばしば皇帝が個人的意志を貫徹する手段となり、皇帝は儀注の作成と国家儀式の最終裁決権を有するという。 (11)『漢書』巻三〇、芸文志に、「『軍礼司馬法』百五十五篇」があり、これが史料上は最も早く完成した軍礼の礼儀書である。 (12)西嶋定生「漢代における即位儀礼—とくに帝位継承のばあいについて」(『榎博士還暦記念東洋史論叢』所収、一九七五年)参照。 (13)王学軍・賀威麗「『国之大事、在祀与戎』的原始語境及其意義変遷」(『古代文明』六―二、二〇一二年四月)は、晋・厲公三年(前五七八)三月に、晋の主導で秦を討伐するにあたって、宗廟・社稷に対する告礼が実施され、周天子を代表する劉康公・成粛公も儀式に参加した。「受脤於社、不敬」の態度をとった成粛公に対して、劉康公は「国之大事、在祀於戎、祀有執膰、戎有受脤、神之大節也」と批判した。したがって、ここの「祀」は「祭祀」の意であるが、「戎」は「軍事」ではなく、礼制度の「軍礼」を指す。この概念は恐らく『孫子兵法』とその注によって意味が拡大され、「軍事」を指すようになった、と述べる。 (14)この点については丸橋充拓氏も、原初の軍事行為は地神や祖霊の力による罰の発動、軍事儀礼・場所はそのための交信・回路とされている。前掲注7丸橋「中国古代の戦争と出征儀礼」参照。 (15)金子修一『中国古代皇帝祭祀の研究』第二部、第七章(岩波書店、二〇〇六年)参照。 (16)例えば、『文献通考』巻一七八、経籍考五に、「『周礼』為本、聖人体之。『儀礼』為末、聖人履之。為本則重者在前、故『宗伯』序五礼、以吉、凶、賓、軍、嘉為次。為末則軽者在前、故『儀礼』先冠、婚、後喪祭」とある。先述したように、『左伝』成公三年条に「国之大事、在祀与戎」とあり、これに従えば、軍礼は吉礼に次いで二番目になるはずであるが、『周礼』春官、大宗伯によれば、五礼順は「吉・凶・賓・軍・嘉」となっており、軍礼は四番目であって、「国之大事」という重要な地位とは見えない。これは恐らく、元・馬端臨が「為本則重者在前」と述べたように、吉礼と凶礼は五礼の「本」であったからであろう。 (17)ここでいう奏上時間とは、礼官が礼典を皇帝に奏上したものであり、編纂の完成時間とは別である。 (18)『貞観礼』の「国恤礼」削除については、呉麗娯「対『貞観礼』淵源問題的再分析―以貞観凶礼和『国恤』為中心―」(『中国史研究』二、二〇一〇年)、同氏『終極之典――中古喪葬制度研究』上編、第一章(中華書局、二〇一二年)参照。 (19)『政和五礼新儀』巻首に、「『周官』五礼以吉・凶・賓・軍・嘉為序。自唐『貞観』中、所列叙次與『周官』不同、『開元』因而不改、至本朝『開寶通礼』亦遵用之。……故礼以義起、不必同也」とあり、『貞観礼』の五礼順に賛同する意見を示している。 (20)呉麗娯「関於『貞観礼』的一些問題――以所増二十九条為中心」(『中国史研究』二、二〇〇八年)は『貞観礼』の編纂を貞観二年(六二八)とする。 (21)『旧唐書』は「合朔、陳五兵於太社」とするが、筆者はこれを誤りと考える。なぜならば、『後漢書』巻一三、律歴志三、歴法に、「日月相推、日舒月速、當其同、謂之合朔」とあり、また『晋書』巻一九、礼志九に、「元帝太興元年四月合朔、中書侍郎孔愉奏曰、「『春秋』、日有蝕之、天子伐鼓于社、攻諸陰也」とあるように、「合朔」は日食を指すと思われる。「陳五兵於太社」という儀式は管見の限り、唐およびその他の時代の史料に見えないが、『旧唐書』巻四四、職官志三、両京郊社署に、「凡有合朔之變、則置五兵於太社、以朱絲縈之以俟変、過時而罷之」とあり、同記事は『唐六典』巻一四、太常寺、郊社令条にも見える。つまり、太社に「五兵を置く」のは日食の発生に備える措置である。したがって「天子大射、合朔陳五兵於太社、農隙講武」の方が正しいとすべきであろう。ちなみに、陳寅恪『隋唐制度淵源略論考』(上海古籍出版社、一九四四年)は文中の「古礼」を隋礼と指摘している。 (22)前掲注20呉麗娯論文は、『貞観礼』に追加された三つの軍礼儀式の南北朝における継承関係を整理する。しかし、呉氏が「闕」を「ない」と「内容に一部が不備した」と理解したのに対して、筆者はそれに「誤った」という意味があり、唐は『貞観礼』でその部分を調整したと補足したい。例えば、大射儀式に関して、『隋書』巻八、礼儀志三に、「隋制、大射祭射侯于射所、用少牢」とあり、隋では射礼を実施する前に少牢を用いて射侯を祭る例がある。これは唐の史料で確認できず、『開元礼』にもないので、『貞観礼』が加えた調整の一つではないかと考えられる。 (23)唐宋両時代に編纂された国家礼典は実際の実施状況と一致しないことが多くあるため、『貞観礼』軍礼に追加されたこの三儀式は儀式名しか参考しえない。 (24)『唐会要』巻二六、大射参照。また同書同巻に、「五年九月三日、御丹霄樓、觀三品已上行大射礼」とあるように、百官が射る場合も「大射」と呼ばれる。 (25)唐代の大射に、臣下の素質を検証する目的が存在したことは、その実施場所の名称「武徳殿」「観徳殿」などからもうかがえよう。 (26)『左伝』隠公五年に、「故春蒐、夏苗、秋獮、冬狩、皆於農隙以講事也」とあり、杜預注は「各随時事之間」とする。 (27)前掲注20呉麗娯論文参照。 (28)『唐会要』巻二六、講武に、「聖歴二年(六九九)十月、欲以季冬講武、有司稽緩、延入孟春。麟台監王方慶上疏曰、『謹按禮記曰、月令、孟冬之月、天子命將帥、講武、習射禦、角力。此乃三時務農、一時講武、以習射禦、校才力、蓋王者常事、安不忘危之道。孟春之月、不可以講兵。兵者、干戈甲冑之總名。兵、金也、金性克木、春盛德在木、而舉金以害盛德、逆生氣也。孟春行冬令、則水潦為敗、雪霜大摯、首種不入。…(中略)…孟春講武、是行冬令、陰政犯陽氣、害發生之德。臣恐水潦敗物、雪霜損稼、夏麥不登、無所收入也。伏望天恩、不違時令、至孟冬教習、以順天道』。手制答曰、『循覽所陳、深合典礼。若違卿意、此乃月令虛行、佇起直言、用依來表』」とある。 (29)『周礼』夏官、太僕の職掌に、「凡軍旅田役、賛王鼓、日月蝕亦如之」とある。 (30)『旧唐書』巻三六、天文志下に、「古者日蝕、則天子素服而修六官之職、月蝕、則后素服而修六宮之職、皆所以惧天戒而自省惕也。人君在民物之上、易為驕盈、故聖人制禮、務乾恭竞惕、以奉若天道。苟徳大備、天人合応、百福斯臻」とある。 (31)『開元礼』は「開元の盛世」を誇示するため、その編纂方針は単に前礼を「踏襲」するだけではなく、『旧唐書』巻二五、礼儀志五所収、開元一〇年(七二二年)正月制に「朕聞王者乗時以設教、因事以制禮、沿革以従宜為本、取捨以適會為先。故損益之道有殊、質文之用斯異。……嘗覧古典、詢諸舊制、遠則夏、殷事異、近則漢、晉道殊、雖禮文之不一、固厳敬之無二。……是知朕率於禮、縁於情、或教以道存、或禮従時變、將因宜以創制、豈沿古而限今」とあるように、当時の実際の情況を踏まえて礼典を制定することが重視された。同書巻二一、礼儀一に、『開元礼』の編纂にあたって、「右丞相張説奏曰、『禮記漢朝所編、……望與学士等更討論古今、刪改行用』」とある。高明士「唐代的武挙与武廟」(『第一届国際唐代学術会議論文集』、中国唐代学会編、一九八九年)は、唐代武廟について、「将軍が制を受けて出征する場合に、斉太公(太公望・呂尚)廟での告礼の実施を『開元礼』に編入したことは、辺境での戦闘が多かった当時の状況下で武人の地位を上げる必要性があったことと関連しただろうし、また玄宗が文武双方で天下を統治する有為な君主のイメージを築く必要も意識された」とする。 (32)その意義については、池田温「『大唐開元礼』解説」(古典研究会『大唐開元礼附大唐郊祀録』汲古書院、初版一九七二年、一九八一年再版)に詳しい。 (33)前掲注6丸橋「唐宋変革期の軍礼と秩序」参照。 (34)馬に関わる諸儀式の等級について、『開元礼』巻一、序例上に「州県社稷、釋奠及諸神祠、並同小祀」とあり、また『新唐書』巻一一、礼儀一はこれらを小祀としているので、『開元礼』の「諸神祠」に馬に関わる一連の儀式が含まれていた可能性は高いと思われる。 (35)仁井田陞『唐令拾遺』軍防令第一六条は、この規定を開元七年軍防令に基づくものとする。また、露布文について、中村裕一『唐代官文書研究』(中文出版社、一九九一年)第二章「露布」参照。 (36)『周礼注疏』巻三三、校人によれば、馬祖は馬の祖先(天駟)、先牧は最初に馬を飼養した者、馬社は最初に乗馬した者、馬歩は馬の災を管理する神である。 (37)『開元礼』巻八五、「皇帝講武」儀式に「若因田狩、則令講武軍士之外先期為圍、觀迄、乘馬、鼓行、親禽如別禮。狩迄、乘輅振旅而還如常儀」とあり、また「皇帝田狩」儀式に「其因講武以狩、則先設圍亦如之」とあるように、講武と田狩が共同で行われる場合の規定が記されている。 (38)『尚書』舜典に、「歳二月、東巡守、至於岱宗、柴。五月南巡狩、至於南岳、八月西巡狩、至於西岳。十有一月朔巡狩、至於北岳」とあり、『尚書孔伝』は「諸侯為天子守土、故称守。巡、行之。」とする。また、『孟子』梁恵王下に「天子適諸侯曰巡狩。巡狩者、巡所守也」とある。 (39)円丘・宗廟・社稷に対する告礼の流れは通常とは異なる点が多いが、「皇帝親征」の場合とも若干異なる。また、巡狩の性格は軍礼・吉礼・嘉礼の間で変動したことも注目すべきである。 (40)何平立「中国古代帝王巡狩与封建政治文化」(『社会科学』三、二〇〇六年)。また同氏『巡狩与封禅:封建政治的文化軌跡』も参照。 (41)それらの名称については、『唐令拾遺』巻八祠令第二三条参照。 (42)『大唐郊祀録』巻一〇、饗礼二、釋奠武成王によれば、両京の斉太公廟は、西京長安では外郭の太平坊にあり、東京洛陽では外郭の道徳坊にあることがわかる。 (43)唐代山川、嶽瀆について、清・秦蕙田『五礼通考』巻四七、四望山川に「山川之神加以人爵封號蓋始於此、非禮之端、肇之者則天也」とあり、山川の神々に人爵を授けるのは則天朝からだとする。朱溢「論唐代的山川封爵現象――兼論唐代的官方山川崇拜」(『新史学』一八―四、二〇〇七年)も同じ考えを示し、その目的を皇帝の拡張のためとする。現に、唐政府は地方祠祀管理を一貫して規範し、『開元礼』完成の後も、玄宗は中央が地方政府の祭祀すべき対象を規定しようと試みた。『唐六典』巻三、戸部郎中員外郎条に、全国の十道それぞれに名山・大川の名前が列挙されているのも、それを反映すると思われる。 (44)唐代祭祀における酒については、江川式部「唐朝祭祀における五斉三酒」(『文学研究論集 文学・史学・地理学』一四、二〇〇〇年)、同氏「唐朝祭祀における玄酒と明水―『大唐開元礼』の記載とその背景―」(『駿台史学』一一三、二〇〇一年八月)参照。 (45)前掲注6丸橋「唐宋変革期の軍礼と秩序」は「獲物の共有」が「田狩を通じて軍事教練を行うこと」と同等の重みが置かれていると指摘し、前掲注6陳戍国著書も「宗廟に獲物を供えることは蒐狩の重要の目的の一つ」とする。 (46)『宋史』巻九八、礼一、吉礼に、「開寶中、四方漸平、民稍休息、乃命御史中丞劉温叟、……、撰『開寶通禮』二百巻、本唐『開元禮』而損益之」とある。 (47)耿元驪「五代礼制考」(東北師範大学修士論文、二〇〇三年)はこの時期の軍礼を考察し、軍礼全体が空洞化したことを指摘する。楼勁「宋初礼制沿革及其与唐制的関係――兼論‘宋承唐制’説之興」(『中国史研究』二、二〇〇八年)は、北宋が『開元礼』をどれほど踏襲できたかは疑問であり、むしろ北宋初期は五代に変容した唐制を受容した、と述べる。しかし、耿氏による五代の五礼制度の検討では軍礼には言及しておらず、その「変容」についてもわずかに触れるだけで、検討の余地が残されている。 (48)『因革礼』は広雅書局本による。 (49)献俘礼の変容過程は注6拙稿参照。 (50)『政和五礼新儀』巻首に、「裁成損益、親製法令、施之天下、以成一代之典。……行禮当追述三代之意、適今之宜、『開元礼』不足為法」とある。 (51)小島毅「宋代の国家祭祀―『政和五礼新儀』の特徴―」(池田温編『中国礼法と日本律令制』に収録、東方書店、一九九二年)は、両礼典を比較し、吉礼の九鼎・太一・九宮貴神・感生帝・火星に対する儀式を取り上げて考察し、『開元礼』と『政和五礼新儀』の異同を指摘している。 (52)前掲注6丸橋「唐宋変革期の軍礼と秩序」参照。 (53)儀式の性格が変わったことは、宋代以前にもあった。例えば、朱溢「唐代孔廟釋奠礼儀新探―以其功能和類別帰属的討論為中心」(『史学月刊』一、二〇一一年)は、魏晋に起源する釋奠礼は、最初は嘉礼に近い性格を持ったが、唐代より吉礼に定着して後世の孔子廟祭祀の基本構造を形成した、と指摘する。 (54)これらの儀式を増減した理由や時代背景については、さらに専論が必要であろう。 (55)『宋史』巻一一一、礼一四、嘉礼二に、「冊命親王大臣之制、具『開寶通事禮』……。毎命親王、宰臣、使相、枢密使、西京留守、節度使、並翰林草制」とある。 (56)『玉海』一六〇、景祐大慶殿条に「東西廊各六十間、有龍墀、沙墀。正至朝會、冊尊號御此殿、饗明堂、恭謝天地即此殿行礼、郊祀齋宿殿之後閣、蓋正殿也。」とある。その広さを『東京夢華録』巻一〇、車駕宿大慶殿条は、「冬至前三日、駕宿大慶殿、廣闊可容數萬」と説明する。 (57)『宋会要輯稿』礼五九、冊命王公大臣。同書同巻に、「故事、親王、大臣例辭冊禮、後不複書」とある。 (58)例えば、澶淵の盟に軍功を挙げた石保吉はその一例である。 (59)『続資治通鑑長編』巻一五三、仁宗慶歴四年(一〇四四)一二月乙未条。 (60)金子修一『古代中国と皇帝祭祀』(汲古書院、二〇〇一年)第五章「唐代皇帝祭祀の特質」は玄宗・天宝年間に太清宮が長安皇城外に移されたことが契機となって、長安市民の皇帝祭祀への関心が高まったとされ、唐代後半期における皇帝祭祀の世俗化を指摘する。妹尾達彦「唐長安城の儀礼空間―皇帝儀礼の舞台を中心に―」(『東洋文化』七二、一九九二年)および前掲注6妹尾論文も同様に、長安は唐代後半期から象徴性よりも機能重視の方向へ転換し、皇帝の儀礼もこの変化した都市構造の中で世俗的性格を強めたとする。また、穴沢彰子「唐代皇帝生誕節の場についての一考察――門楼から寺院へ」(『都市文化研究』三、二〇〇四年)も、唐代後半期に「世俗化」した皇帝儀礼は、軍事的な脅威が増して唐朝の権威が低下するにつれて民衆に「見られる」必要があったと指摘する。 (61)唐代前期に人神関係を調整したことは、「神に対する皇帝の自署と拝礼の有無」、「山川に対する爵位の授与」、「唐王朝の遠祖・老子を始祖とする道教的要素(例えば太清宮)と斉太公廟を祭祀系統に導入すること」などから展開された(『旧唐書』礼儀志参照)。また、唐王朝が諸神を礼制度の管理の下に置く意識は『開元礼』中にうかがえる。 (62)例えば、吉礼の九宮貴神を祭る儀式について、『旧唐書』巻二四、礼儀志四に「文宗大和二年(八二八)八月、監察御史舒元輿奏曰、『臣伏以天子之尊、除祭天地、宗廟之外、無合稱臣者。王者父天母地、兄日姉月』。……詔都省議、皆如元輿之議。乃降為中祠、祝版稱皇帝、不署」とあり、皇帝の権威に対する認識が反映されている。 (63)『続資治通鑑長編』巻三三六、神宗元豊六年(一〇八三)閏六月辛卯条に、「太常寺言、『博士王古乞自今諸神祠加封、无爵號者賜廟額、已賜廟額者加封爵、初封侯、再封公、次封王、生有爵位者从其本。婦人之神封夫人、再封妃。其封號者、初二字、再加四字。如此、則錫命馭神、恩禮有序。凡古所言皆当、欲更增神仙封號、初真人、次真君』。并従之」とある。 (64)北宋の景霊宮と神御殿については、吾妻重二「宋代の景霊宮について―道教祭祀と儒教祭祀の交差」(『宋代思想の研究:儒教・道教・仏教をめぐる考察』第四章、関西大学出版部、二〇〇九年)、山内弘一「北宋時代の神御殿と景霊宮」(『東方学』七〇、一九八五年)、朱溢「唐至北宋時期的皇帝親郊」(『政治大学歴史学報』三四、二〇一〇年)参照。 (65)旌節については、大原良通『王権の確立と授受―唐・古代チベット帝国(吐蕃)・南詔国を中心として―』(汲古書院、二〇〇三年)第一章「中国における王権の確立とその象徴」、第二章「唐における王権」参照。 (66)ただし、『開元礼』の「制遣大将出征有司宜於太社」「制遣大将出征有司告於太廟」「制遣大将出征有司告於斉太公廟」の三儀式に斧鉞の授受を伝える件は見えないので、太廟における斧鉞の授受は実際には行われなかったと考える向きもないわけではない。前掲注35中村論文、附論Ⅰ「唐代の軍制に関する若干の考察」参照。確かに、『唐李問対』巻下に、「太宗曰、『古者出師命將、齋三日、授之以鉞曰、従此至天將軍制之。又授之以斧鉞、従此至地將軍制之。又推其轂曰、進退唯時。既行、軍中但聞將軍之令、不聞君命。朕謂此禮久廢、今欲与卿参定遣将之儀、如何』。靖曰、『臣窃謂聖人制作致齋於廟者、所以假威於神也。授斧鉞而推其轂者、所以委寄以權也。今陛下每有出師、必与公卿議論、告廟而後遣、此則邀以神聖矣。每有任將、必使之便宜従事、此則仮以權重矣。何異於致斎推轂邪。尽合古禮、其義同焉。不須参定』。上曰、『善』。乃命近臣書此二事為後世法」とある。つまり、『唐六典』の規定は象徴的な意味を持つのであるが、実際には将軍は皇帝が任命しているので、社稷・太廟・斉太公廟における斧鉞の授受は唐代でも省略された、とある。こうした習慣が、北宋においては皇帝から直接旌節を受ける儀式として『新儀』に明記されたのである。 (67)『開元礼』巻八二、「皇帝親征宜于大社」に、その祝文の内容に「其祝文臨時撰、告以親征之意」とある。 (68)嘉礼の本来の性格については、『周礼』春官・大宗伯に、「以嘉禮、親萬民。以飲食之禮、親宗族兄弟。以昏冠之禮、親成男女。以賓射之禮、親故旧朋友。以饗宴之禮、親四方之賓客。以脤膰之禮、親兄弟之國」とある。 (69)前掲注6丸橋「唐宋変革期の軍礼と秩序」参照。 (70)『宋史』巻一二一、礼儀志二四、軍礼。 (71)『冊府元亀』巻三九八、将帥部に「(建中四年)鄂州刺史李兼禱于城隍神、因大破李希烈之將」とある。 付録・図表
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